黒瀬 珂瀾


風を従へ板東太郎に真向へば塩のごとくに降りくる雪か

石川一成『麦門冬』

大らかな景だ。坂東太郎とは、利根川のこと。同じく筑紫二郎は筑後川、四国三郎は吉野川。日本を代表する暴れ川を兄弟として表現した人々の心を思う。その長男が悠々と流れる景を遥かに見渡し、〈私〉は立っている。どこかの高台か山の上だろうか。もしくは河口付近の広大な流域を眺めているのだろうか。ここで〈私〉は、利根川という一級河川ではなく、「坂東太郎」という、関東の長い歴史を生き抜いてきた、一人の人格と対している。

「風を従へ」という初句が実に格好良い。風が吹きすさぶ、広大な関東平野の冬を実感させる。俗に言う〈からっ風〉だろうか。その風を従えることにより〈私〉は、大いなる利根川と真向かうことのできる存在となる。言いかえれば、自然の一部として没入する、ということかもしれない。〈河〉と〈人〉とを往還する「坂東太郎」、〈人〉と〈自然〉とを往還する〈私〉、その両者が向き合う時、雪が塩のように降る。それはどこか、神話的な光景でもある。この「塩」には、聖域を清めるものとしての意味もあるだろう。〈私〉と〈坂東太郎〉が向かいあう広大な関東の地を、「塩」が清めてゆく。普段の生活では忘れている〈自然との一体感〉を取り戻した〈私〉が、世俗を思う心から清められているようでもある。

  定まりし冬日ながらに水澄めり心に融けてゆく死者の声

  麦門冬(やますげ)の藍色に光(て)る実をぬらし雨は油紋(ゆもん)のごとくひろがる

上記も、自然現象に真向かうことで心の平明を得る歌だろうか。冬の日の元に澄み切ってゆく水。池か河だろうか、水に向き合い、己を没入させることで、心に死者の声を響かせている。二首目もさりげない歌だが、油紋のごとく広がる雨を見つつ、心を広げる〈私〉の姿がある。

以下は余談だが、「麦門冬(ばくもんどう)」と書いて「やますげ」と読ませるというのは、この歌集で初めて知った。万葉集にある「やますげ」は「麦門冬」と等しいと古来考えられてきたようだが、実際にどの植物を指していたのかは、諸説あるらしい。この歌では「藍色に光る実」とあるから、石川は麦門冬=やますげ=ジャノヒゲと考えていたようだ。現在、麦門冬は、漢方の生薬であるジャノヒゲの根を指すのだという。