一滴の青を落としてわが画布にはばたく鳥の羽を弑(しい)する

寺島博子『王のテラス』(2011年)

鳥の絵を描いているところだろうか。一滴落とした青の絵の具が、強い印象をもって作者に迫り、「弑する」という言葉を呼んだ。「弑する」は、「主君や父など目上の者を殺す」という意味で使われる。この歌では、「鳥の羽」が何がしか殺した対象の比喩になっていると読めなくもないが、厳密に意味は定めなくともよいように思う。殺してはならないものを殺したという感触、うっすらと禁忌に触れている感触が、一滴の青を落としたことで生まれた。そういう感触を引き寄せる作者の心の様態に触れた気が、私はするのである。

 

  一日の務めのごとく食(じき)の音ひびかせて粥をすすれり母と

  食卓に永遠(とは)にいまさぬ父がため星鰈煮るこの夜(よ)の母に

  そのむかし身罷りたるもゆめになほ騒ぐもうぢき春ぢや春ぢやと

  雨に濡れ色の変はれる石のうへ踏みしめて行くひとりの音を

 

歌集からは、作者の父は亡くなり、母や子と共に暮らしていることがわかる。父をはじめとする個々の死を起因として「死」を心の深くに抱くが、より普遍的に「人が生きる」ということに思いをめぐらせる一冊だ。1首目の食事を音を「一日の務めのごとく」とする比喩や、4首目の雨に濡れた道を歩いていくことを「ひとりの音を踏みしめる」と捉えるところにそれが読みとれる。3首目は、「そのむかし」ときりだして、まるで説話の語り出しのようだ。夢の歌としてとても面白い。騒ぐのは父なのだろうか。不特定の死者たちの声であるような気もする。かつて生きていた者たちの声が、それも妙な口調で夢の中に響く不思議はリアルである。

 

  さからはぬままに朽ちゆく万象のひとつかと思ひ強く引く眉

  六本のかひなのうちの一本にこの手を添へて阿修羅と歩む

  ざつくりと空を切り終へやすらへる大鋏あらむ陽(ひ)の差す朝に

 

掲出歌について、「うっすらと禁忌に触れている感触」と記したが、生と死のエッジのような所に心をおいて、人としてのわが身を見ているところに、そのような感触は生まれるのかもしれない。1首目は、「さからはぬまま朽ちゆく万象のひとつ」としてわが身の生を捉えている。2首目は、阿修羅の六本の腕のうちの1本と手をつなぐ、と、ユーモアを交えながらも、どこか苛烈で孤独な生を選んで迷わないふうだ。そして、3首目の幻の大鋏は、憧れるような思いで歌われているのではないか。朝の陽の中で、「ざっくりと空を切り終えてやすらう」大きな鋏。生きていることの中に、または生き尽くした後に、このような充足があるのかもしれない、と思わせる静かな光のような一首である。

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