魚村 晋太郎


あるときは泣きたきほどに百合蕊の粉に塗れて戻る道なり

河野泰子『春の扉』(2009年)

百合は洋の東西を問わず、古くから鑑賞されてきた花で、キリスト教では、純潔や処女性の象徴とされた。
ユリ、の語は、大きな花が風に「揺る」、或いは球根の鱗片が「寄り」重なるところから変じたといわれる。
山野では初夏から盛夏にかけて咲く。
雄蕊の先についた花粉は服につくとなかなかとれないので、切花を飾るときは、葯ごとつんでしまうことが多い。

花は植物の性器だ、と言ったのは澁澤龍彦だ。
百合の花粉にまみれることはそのまま、性愛の喩、とも読める。
その場合、泣きたきほどに、は甘美な陶酔感の表れである。

でも、一首からは、思いをとげた悦びは伝わってこない。
やはり、マイナスの感じ、花粉で衣服を汚してしまった、あの感じを核にして読みたい。
花粉と、いわず、粉、といっているところからも、異物にまみれた不本意な感じが受け取られる。

相手はたぶん同性。
相手の言葉、相手の行為に自尊心を傷つけられた。
悔しさにまみれて、いつも自分のいる場所へ、戻る。
同じ道を昨日も通ったし、明日も通る。
自尊心がつよいほど、悔しさも大きかったにちがいない。
けれど、汚れた衣服と違って、人のこころは、みずからそのかがやきをとりもどす。