江戸 雪


数ならぬふせ屋におふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木

空蟬の歌 『源氏物語』「箒木(ははきぎ)」

五月雨の降るころ。
空蟬は、光源氏がはじめて知った中流階級の女性である。源氏の歌に返して、この「消ゆる帚木」の歌を詠んだ。

帚木の心を知らでそのはらの道にあやなくまどひぬるかな  源氏

この二人の歌は、『新古今和歌集』「恋歌一」の歌をふまえている。

その原やふせやに生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かな  坂上是則

「その原やふせや」(園原や伏屋)は、信濃国の枕詞。
「帚木」は、伏屋にあった伝説の木で、遠くからは見えるけれど近づくと見えなくなるといわれていた。現在では、ホウキグサ、アカザなどと呼ばれ、帚を逆さにしたような形の木である。

これらは、よく知られていることであり、「雨夜の品定め」のことや、夕顔のことなど、話し出すときりがない。

さて、物語に描かれた空蟬という女性。一度は源氏の強引な誘いで夜をともにするが、その後は身分の違いを憂い、かたくなに誘いを拒みつづける。みずからの薄衣を脱ぎ捨ててまでも源氏から逃げる姿はいたましく美しい。
なぜそこまで源氏から逃げるのか。それはやはりプライドのせい。身分ちがいの恋がどれほど自分を傷つけるか、それを考えると、どうしても源氏を受け入れるわけにはいかなかったのだ。

プライドは、自分を過剰によくみせようとしたり、必要以上に自分を正当化しようとしたりするやっかいなものだ。けれどいっぽうで潔くいるためにはとても大切なもの。
ふかく傷ついたとき、哀しみに遭ったとき、プライドがあるから何度も歩きなおせる。

空蟬は、源氏の記憶にふかく刻まれる女君のひとりとなった。