江戸 雪


十五年借りたるのちは返すべきさみどりの長身月映に置く

山下泉『光の引用』(2005年)

むかしから、子どもは天からの預かりもの、といった精神があり、この歌の出発もそのような考えなのだろう。
自分の子どもは、親である自分のものではないというおもいを持てば、子を持つ者の生き方や考え方が豊かになり、現代のもろもろの問題もすこしは解消されるようにもおもう。
それは、どのような人間どうしの関係にもあてはまることなのだが。

「さみどりの長身」とは、少年だろう。
「十五年」のあいだ、一緒に生活をし、この少年を見つめてきた。関係は少しずつ変化し、ひとりの自立した人間として生きる少年は、とおくなっていくようでもある。しかしいっぽうで、たとえば、おもいがけないことを話しはじめたりするときの驚きと喜びも大きくなる。

しずかに「返す」時がきたのだと知る。
どこに返すのか、それはずっとずっと前に少年自身のいた場所へ返す、と漠然とおもえばいい。

「月映」とは月に照らされてかがやく場所、ということだろう。
場面はまるで『竹取物語』のようだ。
また『源氏物語』の「竹河」のなかで女房が薫に「闇はあやなきを、月ばえ今すこし心異なり、と定めきこえし」とお世辞をいう場面にも、すでにこの言葉が出てくる。美しい言葉だ。

「さみどりの長身」を「月映」に置いている少年は希望にみちていて、その存在を想像しているとなぜか未来への勇気が湧いてくる。