こよひはたれが逝く斑鳩の参道をまっすぐに来る無人の自転車

                                          永井陽子『樟の木のうた』(1983年)

 

 古代の趣を残す斑鳩の道を歩いてゆくと、無人の自転車がこちらに向かってやって来る。今夜は誰が死ぬことになっているのだろう。あの自転車に乗っていたはずの人が、次に死ぬことになっているのではないか。おそしく、かなしい直感のある歌である。

 むろんフィクションの歌であるが、それは歌のために作った物語ではないような気がする。この歌を作った日、作者自身は斑鳩に行っており、ここで歌っている通りの感覚に陥ったのではないか、私はそんな想像をする。「斑鳩の道」ではなくなぜ「斑鳩の参道」なのだろう。「道」でも十分物語は成り立つはずだが、本作品ではあえて「参道」と特定する。実は、作者は斑鳩のどこかの寺に行くために参道を歩いたのではないか。歌にするために、物語にするために寺の名前は消したが、参道という具体は残った。そんな感じがする「参道」という語のチョイスである。(もっとも、その真偽を読者はだれも確かめることはできないのであるが)。

 また、「たれが逝く斑鳩の」という句またがりと句割れにより、リズムは詰まっており、切迫感がある。主体が感じている死への恐れはこのリズムに出て来ているように思う。そして「まっすぐに行く」ではなく「まっすぐに来る」である所も怖い。無人の自転車は私へとどんどん迫る。主体は逃げようがなく、次に死が訪れるのは私かも知れないという思いになる。そこには切迫した感情が覗いているように思う。

 永井の歌は私性が薄いとしばしば言われるが、実は作歌の初めにはあったはずの「私性」や「歌う動機」が意識的に消されているだけではないか、と思うことがある。作者に確かめるわけにもゆかないので、これは印象批評だろうか。しかしながら、永井の作には読後「身につまされる感じ」がしばしば残る。生身の「私」の痕跡は、上で観賞したような語のチョイスやリズムに出ているのではないか。

 

 遊楽にとほく月日は経たりもみぢする空にひとすぢの白髪を見き

 ひひらぎの葉さへこほれる寒の朝家のちひさき戸を開くるかな

 まなこ閉づればとこしへに立つ一本のさあをき竹の内に雪降る

 

 どの歌も筆者が好む歌である。「ひとすぢの白髪」は、空にすっと伸びる雲のイメージだと思うが、どこか「遊楽にとほく月日を経」た主体自身の白髪のイメージもある。「ひひらぎの葉さへこほれる」は美意識とともに、冬の朝を観察するリアルさがあり、寒さや寂しさがしんみりと伝わってくる。

 

 剣道着解かず寄り来て髪に触れ汗のにほひを移してゆきぬ

 たはむれにかぶせくれたる面頬の汗くさき闇もあたたかかりき

 草の実の夜ごとに熟れてゆくころを琉金も熱き呼吸(いき)をしている

 

 永井には珍しい濃密な相聞歌も『樟の木のうた』にはあり、推したくなる作品だ。

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