石川 美南


冬越えむとして厚き葉がかたはらの祈りのごとき幹に触れをり

玉城徹『樛木』(1973)

 

今日はこの歌について書こうと決めてから、なんと数時間が経過しているが、一向に書き進められない。とてもかっこいい歌であることに間違いはないのだが、きちんと解説しようと思うと、頭がフリーズしてしまう(更新が遅れている言い訳です)。

 

「『厚き葉』とは照葉樹、たとえばツバキやモチノキであろう」などと具体的な景を説明してみても、この歌の面白さを言い当てられる気がしない。

かといって、葉や幹を擬人化しているとも言いがたい。葉は無心に幹に触れているだけだし、幹の方も、「祈っている」のではなく、ただ「祈りのごと」くまっすぐに立っているだけだ。

ましてや、「『祈りのごとき』とは厳しい冬を乗り越えようとする作者の心の投影でありまして……」などと書いたら興ざめだ。がっかりだ。

 

ああでもないこうでもないとばかり言っていても仕方ない。ヒントを求めて、作者による「樛木後記」を読み返してみる。並んでいるのは、「わたしの作品には連作は皆無なのである」「わたしの作品は生の記録ではないと同時に、ある観念の文学的表現でもない」「わたしは個人心理的なものにはほとんど関心も同情も有せない」「わたしの特異性は、これまでの近代短歌には無かった、範疇の異なった考え方を導入した点にある」……まあ、多少恣意的な引用ではあるけれど、これまた「ない」のオンパレードなのである。

 

ざっくりと言えば、玉城徹は、近代以降の短歌が培ってきた「個人の生活や心情を語る」表現方法を一旦全て否定した上で、個人を超越した「美」や「真理」に、直接アクセスしようとした、ということになる。

 

だいぶ話がややこしくなってしまった。ここまで書いてきたことはひとまず忘れて(!)、もう一度この歌を読んでみる。

冬。厚い緑の葉が、たまたま幹に触れている。しかし、そこに「祈りのごとき」というフレーズが挿入されたことで、なんということのない風景の中に、「祈りとは何か」という根源的な問いかけが、いきなり立ち上がってくる。言葉が生命の本質を射抜く瞬間を、私は今、目撃したのではなかったか。

 

以下、解説は放棄して、『樛木』の中から大好きな歌を列挙する。

 

   冬ばれのひかりの中をひとり行くときに甲冑は鳴りひびきたり

   工事場の裏側に冬の陽のさすを月のひかりの如く見て過ぐ

   根もとまであらゆる箇所がうとましく濃きむらさきに蕾出だしぬ

   夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし