背中だけ見せて寝ている村の井戸を汚したせいで帰れぬ人が

吉野亜矢『滴る木』(2004年)

村の井戸を汚してしまった男。この村では井戸は村人の命をつなぐ大切な場所なのだろう。そんな井戸を汚してしまった男は村八分になったのか、村を出て来て作中主体の傍らで寝ている。寂しげに心を開くこともなく、背中だけを見せながら。男についての主体の思いは記述されない。男の傍らにいる作中主体はいったい何者なのだろうという謎は残されたままである。

ここに記述される村はむろん現代日本の村ではない。あるいは現実の村の具体的な出来事の比喩でもないだろう。いわば物語上の抽象的な村である。世のどこにでもある「村」や「共同体」のもつ“機能”のようなものを写し取っているようだ。現実の「村」にあるはずの空気や香り、個々の人間の生活の機微は抜き取られ、トレーシングペーパーで輪郭だけを写すように、村という共同体のもつ機能と男のなりゆきのみが描かれる。例えば、背中を見せて寝る男の個別の内実や、彼への主体の思いを描くといわゆる「歌らしく」なるのだろうが、そうはしない。そして「村」とは何か、「共同体」とは何かという抽象的問いが浮かび上がる。冷たいパッションで男を眺めて描き、問いを読者に投げかけるの歌だと思う。

美しきかたちと思う忠敬(ただたか)の結びあげたる海岸線を

あるだろう 虹の根ふとく突き刺さるあたり制度の届かない地が

自らに名前与えし驕慢の報い 時には死に近き名前

いずれも歌集巻頭の一連からの歌であるが、共同体とは、国家とは、制度とはという問いが垣間見える。「結びあげたる」や「虹の根ふとく突き刺さる」等の語の斡旋は見事であるが、そのレトリックをただ楽しむことを許さない「問い」があり、筆者などは時折たじろぐほどだ。三首目では自らに名前を与えることを「驕慢」であるとする。なるほど、名前とは本来他者が与えるものであり、生涯のがれ得ないものである。(ひょっとすると「国家」や「村」「性」も同様なものかもしれない)。そのようなものであるはずの「名前」を自分に与えるという驕慢さをいう。それは、時には死に近き名前になるよと。

前回取り上げた生沼と同じく、吉野も筆者と同学年である。私などは、長く自意識の魔に囚われてなかなか大人になれなかったタイプだが、同世代にこのような硬派の問いを堂々と発する歌人がいることにひどく驚いた記憶がある。自分をあらかじめ規定したり縛ったりした何物かへの問いかけは存外に重い。

オーブンに灯る明かりを見つめれば海へ通じるトンネルの中

スチールの缶にこっつん口寄せる 冷たいものが喉(のみど)へ落ちる

あちこちで瞬くひかり人の役に立ちたいって顔をかき分け進む

個人的には、このような生活の中での個人の感覚がひかる歌も好きである。オーブンに灯るひかりは、なるほどどこかトンネルの灯に似ているし、「こっつん」というオノマトペは缶に歯先が当たる感じとして読者にすとんと落ちる。人の役に立ちたいという人への意見はなかなか辛辣だが「顔をかき分け進む」(“人”をかき分けではない!)という表現も地味ながら巧いと思う。

この十年私の進歩とナプキンの進歩はどちらがはやかったのか

五月、少年によるバスジャック事件

鯉のぼり風におくれて それは死んだ肉を切る包丁です

自分への認識もなかなか厳しく、ナルシスティックなものはほとんど皆無である。最後の歌のような社会詠、機会詠にも注目した。自我の内側へと自閉してゆかない開かれた歌集である。

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