魚村 晋太郎


蛍の谷見よと言いし人再びを見しかと問いて誘いはせず

源陽子『桜桃の実の朝のために』(2008年)

螢の光は熱をもたない冷光で、うつくしく神秘的な印象がある。
もっとも発光のつよいゲンジボタルは、5月末から6月、ゲンジボタルにくらべて発光のか弱いヘイケボタルは6月から8月にかけてあらわれる。
「螢二十日(はつか)に蝉三日」と、盛りの短いことのたとえに言われるが、実際の成虫の寿命は10日ほど。
ゲンジボタルの場合、同じ場所の幼虫は比較的いっせいに上陸するので、一箇所でさかんに見られるのはせいぜい半月くらいだ。

和泉式部が、男性の足が遠のいたとき、貴船神社に詣でて「物思へば沢の螢も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」と詠み、貴船明神が男の声で返歌を詠んだという話は有名で、後拾遺和歌集はこの歌と返歌をならべて載せている。
螢狩といって見にでかけたり、詩歌や絵画の題材にするほど螢を愛してきたのは日本人だけだ。

かくれた名所なのだろう。
螢の谷のことを相手は教えてくれた。
見に行ったか、と尋ねてくるが、見に行こう、と誘ってはくれない。
恋人同士、という感じではないが、片思い、というわけでもない微妙な間柄なのだ。
くらい水辺にたたずんで、ふたりで螢を見るのはムードのあること。
相手は自分をこころにかけてくれるが、人目を気にしてか、気恥ずかしさからか、誘ってはくれない。
そんな相手の人柄を理解しつつ、主人公はもどかしく思う。

思いをよせつつ、行動にあらわせないもどかしさは、若いひとにも、年齢をかさねたひとにも同じようにある。ただ、そのときのこころのありようは、若い頃と、年齢をかさねたあとではちがう。
螢のつめたいひかりの明滅のように、主人公のこころはしずかに疼く。