誰のこともさして恋はずに作りたる恋歌に似て真夏のうがい

石川美南『砂の降る教室』(2003年)

「誰のこともさして恋はずに」とはどんな情態?
まあまあ好きなひとが何人かいる。または好いてくれるひとが何人かいる。
あるいは、いつでも姿を思い描いてしまうような惹かれるひとがいない。
いろいろ想像するけれど、どれもしっくりこない。

なにより、誰も好きになれない、誰かをはっきり拒む、といった主張もなく、
「さして恋はず」だから、ちょっと好きな感じものこっているところが軽快でおもしろい。
つまり、恋をそんなに必要としていない、でも淋しいから身をよせあうひともいて、たまには恋歌なども作る、というアンニュイな情熱。
なぜかそこにちょっと憬れ、共感してしまう。

恋愛をするには、時間や体力やそのほかさまざまなアイテムが必要。
「誰のこともさして恋はずに」というクールな視点のいっぽうで、結句の「真夏のうがい」に感じられるがらんどうのさびしさはどうだろう。
恋なんてそんなにだいじじゃないし、誰かに焦がれることもないといいながら、
はてしなくさびしいうがいの音を響かせる。

その自虐的な立ちかたがいい。

「誰のこともさして恋はずに作りたる恋歌に似て真夏のうがい」への4件のフィードバック

  1. 日々のクオリア、日々読んでいます。

    今日の歌は、ひょっとしたら「真夏のうがい」の句が先に作者の頭にはあったのかも。「冬のうがい」ならば、喉元に付着したかもしれないウイルスを除去するという確固たる目的があるけど、真夏のそれにはない。その説明が「…に似て」までで行われている、序詞といえば序詞でしょうか。そうみるとやや技巧勝ちな歌だけど、一見それとわからない作りでもあり、佳品に仕上がっていると思います。歌集中にこういう歌がさりげなくまじっていると作者の技量に身を委ねてみようかとふと感じたり。

    さてそろそろ、江戸さんと魚村さんそれぞれ、お互いの歌を鑑賞してみてはいかがでしょうか。

    1. 莫告藻さま♪
      お読み下さりありがとうございます。
      なるほど、序詞。うがいの歌だと読むのもおもしろいですよね。
      この歌のあっけらかんとしたところが好きでした。

      魚村さんの歌は佳作が多いので、どの歌にしようか、迷いつづけています。
      季節やそのときの自分の気持ちにぴったりくる歌をちかぢか鑑賞します!

  2. 全体的に歌が平板化している(とぼくには思われる)現状にあっては、歌に盛り込まれた技巧技術も読み手に複眼をもたらす効果が期待できるのではなどと、短歌の一ファンとしては思っています。

    江戸さんにも秀歌がたくさんありますよね。20首ぐらいはすぐにおもいうかびます。魚村さんの選歌に期待です。

  3. >莫告藻さま
    日々お読みいただきまして、ありがとうございます。
    石川さんの歌、恋の歌のような、恋歌の歌のような、うがいの歌のような、
    はぐらかされるような歌ですね。

    >江戸さん
    え、もうやるんですか。

    ぼくも江戸さんの歌なら20といわず、思い浮かぶのですが、
    身内、というのも変か。パートナー、というともっと変かな、いずれにしても江戸さんの歌はもうすこし後にしようかなあ、と思ってました。
    でも、その折々の気分で、鑑賞させていただくかも知れません。

    今後ともよろしくお願いします。

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