夕映えはあわぁいあわいびわの色いまでは思い出せない味の

本田瑞穂『すばらしい日々』(2004年)

枇杷は、ほかに咲く花のすくない初冬、枝の先に白いちいさな花をたくさんつける。
花は目立たないが、杏仁豆腐に似たいい香りがする。
春の花花が咲ききそうあいだ、まだ緑色の枇杷の実は葉陰で次第にふとり、石榴や夾竹桃など夏の花がさき始める初夏、黄橙色に熟す。
一年中手に入るバナナやオレンジと違って、枇杷は現在でも初夏ならではの果物という印象がある。また、一方で、スイカやメロンのように子供たちに人気がある果物ではない。

目の前にひろがる夕映えの色が、枇杷の実のすこしくもったような淡い黄橙色を思わせた。
いまでは思い出せない味、と言っているのは、子供の頃、実家とか祖父母の家とかにあった特定の枇杷の木の実の味をいっているのか、単にひさしく食べていないということなのか。
いずれにしても、枇杷の実の甘さはほのかで、種のまわりにはすこしえぐみもあり、なんというか微妙な味だ。季節感と独特の香りをたのしむものだろう。
一首は、単純に色合いのことを言っているだけではなく、消えてゆく夕映えのさまを、その味の記憶もふくめてた枇杷の実のはかなげな質感にかさねている。

思い出せない、と言うがそれは、はっきりと思い出せない、ということで、それは取りも直さず、ぼんやりと思い出した、ということでもある。
枇杷の実の味を思ったのは、主人公のこころに、思い出しそうで、思い出せない、そして、忘れそうで忘れられない何かがよぎったからだ。
家族のことなのか、誰かの言葉なのか。大切な記憶に手が届きそうでとどかないまま、夕映えは消える。
同じ歌集に、
  どうしたら枯れるのだろう君といた五月の緑のような記憶は
という一首がある。
「忘却は、人間の救ひである」とは太宰治の「お伽草子」の、浦島太郎の一節にある言葉だが、人間には忘れられないこともあれば、けして忘れまいと思いつつ、忘れてしまうことだってある。
そして、大切なことほど長く覚えている、とは、必ずしもかぎらないのだ。

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