江戸 雪


手をつなぐかと問ふわれに君はただ笑みて水筒の紐を直しぬ

小林信也『千里丘陵』(2003年)

手をつなぐ、というのは、なかなかいいもの。
気恥しいけれど、さりげなく愛する相手に触れていると安心する。

こいびとと。大きくなった子どもと。老いた親と。ともだちとつなぐひとも最近はたまに見る。
場面や相手によって、その行為の意味や様子はとうぜんちがってくる。

この歌の場面は、子どもが大きくなってふたりの時間がもどってきた夫婦ではないだろうか。
ずっと忙しくて、手をつなぎ歩くなんて忘れていた。
ある日、水筒を持って出かける。ピクニックや登山を想像したがどうだろう。
立ち止まって、時間や気持ちにぽっかり陽があたるような余裕ができたことに気づく。
そのとき、そばにいつもの「君」がいる。手をつないでみようか。

「君」は「ただ笑みて」いるだけで、答えない。
「水筒の紐を直しぬ」に、気持ちは決してすれちがってはいない、嬉しさのなかの恥らいがある。
その仕草を、時間を、ふたりはどこか充足感をもってうけとめているようだ。

このあと、手をつないだか。
そんなことを考えるなんて、ナンセンスだろう。