水槽の魚運ばるるしづけさを車中におもへばたれも裸体なり

                                水原紫苑『びあんか』(1989年)

 

 「車中に」というのだから、主体は電車かバスに揺られているのか。主体は水槽で運ばれてゆく魚のことを思う。私は何となく、一人では抱えられないような大きな水槽を想像する。二人の男が(などということは歌では触れられていないが)左右から水槽を抱えて運んでゆく。どんなに注意深く進んでも水面は大きく揺れる。水に揺れながら水槽の魚はどのような思いで運ばれてゆくのだろうか。そんなことを思っている主体もまた運ばれる存在である。乗り物に揺られるとき、主体自身も水槽の中の魚のような感覚になるのだろう。自分と運ばれる魚の体感がふと重なるとき、魚も自分も裸なのだということに思いは至る。魚と自分の境はなくなり、自分も裸の魚として揺られながら泳いでいるような感覚になるのである。「たれも裸体なり」は魚も、私も、周囲の人もいきものはみんな裸であるということだと思う。むろん、魚は銀の鱗がきらめいており、美しい。そこに幾分かのナルシシズムが流れているだろうか。

 水原らしい美的世界が構築されているが、しかしそれは必ずしも日常の感覚から全く遊離した絵空事ということではない。「車中におもへば」で、乗り物に揺られるときの、人間の身体感覚が再生されるし、「たれも裸体なり」にも魚の肌を感じている主体の感覚がある。抽象的で美的な世界であるが、どこか生な身体感覚が読者に追体験されるようになっていると思う。身体感覚の濃密さは時にエロスになりながら、作品にリアリティーを付加してゆくように思う。

 

坂下るわれと等しき速さにて追ひ来る冬の月の目鼻や

 

蒼天ゆ非在のさくら落ちにけり鋼(はがね)のごとく魚(うお)のごときか

 

 道を歩いているとき、遠くの月が追って来るような感覚になることは誰にでもあり、物理的にも説明できることなのだろう。しかしながら「月の目鼻」と表現することで、どきりとするような感覚がクローズアップされる。また、「鋼のごとく」「魚のごとき」ということで、非在のはずの桜が妙になまなましいまでに脳内でイメージをむすぶ。「落ちにけり」という動詞の選択も良い。鋼や魚のように桜が散るはずはないのに、この強引に、結び付けられたイメージは説得力を持つ。鋼の質感、魚の鱗のきらめきが、読者の身体感覚を呼び覚まし、リアルな感覚を構成してゆくのではないだろうか。

 

 

方舟(はこぶね)のとほき世黒き蝙蝠傘(かうもり)の一人見つらむ雨の地球を

 

朝夕(あさゆふ)に火を見つめつつ女(おみな)らがなほ薔薇を見るふかしぎ在りぬ

 

水浴ののちなる鳥がととのふる羽根のあはひにふと銀貨見ゆ

 

眉さへも流してしまふ霧のなか魚(うお)食むひとのめぐり明るむ

 

こつぜんと晴るるすなはち洋梨に月光射せどなほ球ならぬ

 

 限りなく美しく空想であり、限りなく独断なのだが、作品は閉じることなく読者に開かれている。

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