樹(き)によりて物を思ひぬ、君去りて朽葉しづかに匂ふ秋の日。

                                    平野万里『わかき日』(1907年)

 

 「君去りて」ということだから失恋の歌ということになるだろう。樹に寄って物思いにふけっている。そこではゆっくりと時間が流れていっているようだ。そして、君が去ったことを心の中で確認するとき、目の前に見えたのは朽葉である。それをじっくりと眺めてその匂い、秋の日のなかに自分の心のものがなしさを実感する。

 木に寄ったり、枯れ葉をぼんやりと眺めてみたりが心の孤独につながってゆく。明治の青年の個人の心のありようが、そっと差し出されているようでもある。

 

空(くう)見るか、疑ひの巣を営(いとな)むか、枯れし心か、君を思はず。

 

 結句に「君を思はず」とあり、恋をめぐるこころの煩悶が歌になっている。恋に思い悩んで「空をみる」か、あるいは君の心は離れていっていないかと「疑いの巣を営んでいるか」、そして「枯れし心」になっていないか。恋に思いなやむばかりに身も心も弱るばかり。内容としては古典和歌にもよくある歌だろうが、ぼんやりと自分のまなざしは空を泳いでいるのではないかという自己のありようの切り取り方、また、心の中疑いの巣を営んでいるのではないかという比喩は独自であり、新しい。そして、このような切り取りや比喩は、恋の煩悶を超えてもっと一般的な青年の悩み、苦悩を表出する言葉に近づいている。

 

胸の海にはかに荒れぬ、更(ふ)けし夜(よ)の破(やぶ)れむとする船をいだきて。

 

 難破しそうな船が胸の内にある。荒涼とした心象風景ともいえ、身にしみる。比喩のオリジナリティーが個人のこころの寂しさに直接つながってゆく。そこに近代短歌としての新しさと試行を私は感じるのである。

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