円周に(指は潰れてしまったが)穴あけ回転木馬を降りる

吉岡太朗 「町」創刊号(2009)

「町」は、早稲田短歌会の瀬戸夏子、服部真里子、平岡直子、望月裕二郎、京大短歌の土岐友浩、吉岡太朗による同人誌。2009年5月に創刊号が刊行され、2010年12月に4号を刊行。2011年11月、5号にあたる歌集『町』を刊行すると同時に解散した。創刊から解散まで僅か2年半。いきなり出現していきなり消滅したという印象だが、その間、読者である私は毎号「こう来たか」と驚かされたり「なんだこりゃ」と首をひねったりしながら、刺激を受け続けてきた。

今回から7回ほど、「町」の変遷を振り返りつつ、「町」同人6名の歌を鑑賞していきたい(同人が6名しかいないのに7回続ける理由は……既に『町』を読んだ方ならおわかりだろう)。

「町」創刊号は、2009年5月刊。表紙は、鮮やかな黄緑に白抜きで「町」という文字が入っているだけのシンプルなデザインだが、表紙をめくると見返しが濃いピンクになっており、ちょっとしたこだわりを感じさせる。編集人は瀬戸夏子。編集人は毎号交代制で、編集人の個性が企画や表紙デザインにも反映されていると思われる(ちなみに、3号の奥付からは編集人を「町長」、同人を「町民」と呼ぶようになった)。

この号では、6人が20首ずつの連作を発表したほか、「本歌取りの複数」という企画を行っている。本歌を引用した上で、短歌、詩、書評など複数の「本歌取り」を試みる。一見シンプルな企画のように見えるが、一首の短歌を複数の形に変換していくことで、本歌が本来持っていた意味や質感が(従来の本歌取り以上に)解体され、イメージの乱反射がおこる。大袈裟に言えば、縦一列に繋がってきた短歌史への荒っぽい宣戦布告のようにも感じられた。

吉岡太朗は、2007年に第50回短歌研究新人賞を受賞。受賞作「六千万個の風鈴」はSFの枠組みを用いて不思議な世界観を創出していたが、その後も、従来の短歌の枠にとらわれず、一風変わった仕掛けに満ちた短歌を発表している。この歌は、連作「魚くじ」から引用した。

「円周に穴あけ回転木馬を降りる」という状況を想像してみる。円周とは、回転木馬の土台の部分を指すと解釈した。木馬たちは、一つの円周の内側を永遠に回り続ける。色とりどりの馬たち。オルゴールの音色に満たされた幸せな小世界。しかし、語り手は、自らその円周に指で穴をあけ、外の世界へと出ていく。その際「指が潰れてしまった」のだという(穴をあけるのであれば「円周」ではなく「円柱の側面」なのでは、という気もするが、ここでは同じ意味として扱いたい)。

もちろん、普通の回転木馬の場合は、回転中に無理矢理降りたとしても、かすり傷さえ追うことはない。「(指は潰れてしまったが)」という不穏な注釈が加えられたことで、現実の風景を超えた、禍々しいイメージが覆いかぶさってくる。この木馬たちは超高速で回転し、光の壁を作って、子供たちが降りることを永遠に阻もうとしていたのではないか?

ここに、「保護された子供時代からの卒業」というテーマを読みとることは可能だし、「既成概念からの脱却」と捉えることもできる。いずれにせよ、身体の痛みを伴う危険な挑戦を仄めかしていながら、文体は妙に飄々としているところがユニークだ。

同じ連作には他にも、

折り紙を折るしか能のないやつに足の先から折られはじめる

粉々の夜がちらかる道を掃く仕事を近所のひとと取り合う

かろうじて鯉だとわかる きらきらと鱗のかわりに画鋲まみれの

など、足の先を紙のように折られたり、夜が粉々になったり、鱗が画鋲に変わっていたりと、「痛み」や「欠損」を感じさせるイメージが頻出する。身体や世界の一部を損なわれながら、登場人物たちは皆、それが当たり前のことであるかのように、淡々と日常を続けている。何かはぐらかされているような気もするが、禍々しい事実が禍々しい口調で伝えられるとは限らないということは、経験上、私たちもよく知っているのではないだろうか。歌の上でも、内容のグロテスクさと文体の乖離が、ある種の味わいとなっているのは確かだと思う。

明後日は、「町」2号から引用します。