暴風雨(しけ)あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く

                                                                   若山牧水『海の声』(1908年)

 

 嵐の過ぎ去ったあとの海辺、先ほどまでの風雨とは対照的に、上る陽は明るくて冴えている。そして、下の句「なにものに驚かされて犬永う鳴く」はものがなしくて印象に残るフレーズだ。「なにもの」とは何か。ここでは明らかにされていないが、自然のどこかに潜んでいる大きな力のことのように私は思う。嵐のあと、風の含む湿気や陽の照り方などいつもとはちょっと違う空気に包まれているのだろう。嵐の後のざわざわ、ぞわぞわする感じに犬は鋭敏に反応している。そのような状態をみちびいた自然の大いなる力を前に、犬は遠吠えをするのである。犬の不安感は作中主体のそれとわずかに重なっているといえようか。自然に敏感に反応する感性がそこにはある。
 表現としては「なにものに」という、やや抽象的な言い方が効果的だと思う。なにものか明示することは出来ないけれど、そこに確かにある力、主体や犬を囲む空気の変化、その言い難い所を、言い得ていると思う。明示しないことが、表現のふくらみにつながる。結句の「永う鳴く」の音便変化もウ音の響きが印象的だ。犬の吠え方が何と寂しく読者の心を揺さぶることか。

 

手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に

 

 若い二人が手を取り合っている光景だろうか。この歌では結句の「無限の岸に」が心にのこるフレーズだろう。岸が遠くまでずうっと続いてゆく様子である。「無限」は事実に即した言葉ではないが、読者の想像の中に広がる光景はむしろ豊かだ。若いふたりが立っておりそこから無限に続く岸は、二人の洋々とした前途と重なっているといえば読みすぎだろうか。「無限」という、やや観念的な用語が二人をつつむ光景をむしろリアルに再生している。また、「われらは立てり~無限の岸に」という文体は岸に立つ自分たちを外から眺めているような視線もあり、二人の青春性を自分たち自身も意識している気配もある。韻律的は「の」音の連続が心地よく軽快で、広がる岸の光景にふさわしいリズムとなっている。

 

わが若き胸は白壺(しらつぼ)さみどりの波たちやすき水たたえつつ
秋風は木の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲

 

 「白壺」は揺れやすい心の比喩になっている。「波たちやすき水たたえつつ」は繊細であり、まだ穢れを知らないという風情もある。「波たちやすし」ではなく「波たちやすき」と連体修飾の形になっているところも、この場合はより繊細さにつながっていると思う。夕暮れの雲が「桔梗色」してというのも面白い。雲と桔梗色をつなげたのは牧水のオリジナルであろう。そのオリジナルが夕方の雲の形容にリアリティーを与えており、歌の力となっている。

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