わが泣くを少女等きかば/病犬の/月に吠ゆるに似たりといふらむ

                                    石川啄木『一握の砂』(1910年)

 

 作中の「私」はなぜ泣いているのか。事の詳細は語られないが、そこにはすこやかな少女と対照的に心を病むような「私」がいる。ひとりしくしくと泣く「私」の姿を見て、少女らは病犬が月に吠えるのに似ていると噂するであろう。「似たりといふらむ」という推量はここでは自嘲である。あの健やかな少女には、どうせ俺は月に向かって吠える病犬のように映っているはずだと自らを卑下する。少女の反応を通して自らのありようを確認するという、主体の複雑な心理的屈折をこの推量は内包していると思う。

   文学のことか、世俗での出世のことか、「私」は深く傷ついている。月に向かって吠える病犬のイメージは何とも無残であり、それと重ね合わされる「私」の傷つきようも尋常ではない。その一方で、ふかく傷つくだけの感性を持っている自らの繊細さを恃む気持ちもあるだろう。百年前の青年の精神の、このどうにもならないような煩悶は、現代の私たちとっても意外なまでに近しい。

   ちなみに、「病犬」「月に吠ゆる」という言葉からは萩原朔太郎が連想されるが、初出は啄木の方が早い。

 

死ぬことを

持薬を飲むがごとくにも我はおもへり

心いためば

 

 死を思うこころは痛切だが、この歌では「持薬のむがごとく」という比喩がどうしようもない心理状態に実感を与えている。いつもの薬を飲むように、何度も何度も死を思うのである。比喩と心理が一回性のものとして結びつく。

 

目の前の菓子皿などを

かりかりと噛みてみたくなりぬ

もどかしきかな

 

或る時のわれのこころを

焼きたての

麺麭に似たりと思ひけるかな

 

 この二首などは、暗さのなかに幾分のユーモアがあろうか。たわむれに菓子皿を噛んでみたくなる。「かりかり」というオノマトペは幾分コミカルであるが、「もどかしきかな」は自分で自分の感情のありようを見つめているようでもあり、わずかに自嘲の感があるかもしれない。「焼きたての麺麭」に似た心とはどんな気持ちだろう。いろいろと想像がふくらむが、この歌では自分の感情を振り返って比喩を見つけている。やや気持ちに余裕がある一首か。

 

 

*『一握の砂』は総ルビ歌集ですが、HPでは煩雑になるのでここでは省きました。

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