かつと燃えるウヰスキイの夏ぞら 弱々とたかくのぼらぬ煙突のけむり

 

                                     西村陽吉『晴れた日』(1927年)

 

 西村陽吉は1892年生まれ、東雲堂書店の編集者として啄木や白秋、牧水、茂吉などの歌集出版に携わるとともに、口語による生活派の短歌を長く作った歌人でもある。 

 引用歌は「かつと燃えるウヰスキイの夏ぞら」という比喩が鮮やかな一首だ。アルコールの度数の高い酒であるウイスキー、それを飲みくだすとき、胃の粘膜はかっと燃えるような感覚になる。そのような、夏空であるというのである。ここの「の」は韻文的な感じがする助詞であろう。言葉を補うと、かっと燃えるウイスキーの(ような熱さ、空気の濃密さのある)夏空ということになろうか。ウイスキーが胃を下るときの体感と、夏の空の濃密な感じは全く違うもののはずである(「熱さ」と「暑さ」はむろん別物)。そういう本来は別カテゴリーにある二つのものを「の」という助詞は結びつけている。ふたつの言葉を強引に結びつける機能をこの「の」は持っており、韻文的な用法であるといえよう。「の」以外の言葉で、因果や理由を説明しては歌にならない。口語であるが、決して散文的ではない「の」であると思う。

 そして、上の句の夏空のパワーと対照的に弱々しい煙突のけむりが上ってゆく。直感的な初句二句の把握とは一転する下の句である。夏だからといって、煙突の煙が悠々と高く上るということはない。印象的な夏空とは対照的に、身のめぐりでは褻の生活が続いてゆくのだと言えば深読みのしすぎだろうか。「弱々と」「たかくのぼらぬ」という重なる否定もこの場合は、煙の上る様子のリアリティーにつながっている。

 

すずかけの葉陰を選つて歩いてく ズボンをぬける風味はつて

 

 「歩いてく」は「歩いて来ている」の意か。「ズボンをぬける風味わつて」という下の句が、身体感覚を伴っており爽快だ。風で季節を感じたというだけではなく、「ズボンをぬける風」で感じたというところに体感がある。こういう何でもない生活上の感触を、一首の中に軽やかに定着させているのは口語の妙なのかもしれない。上の句は「葉陰の下を歩く」ではなく「葉陰を選つて」歩くというところに、行動のリアリティーがある。生活の中のふとした折の感慨が伝わってくる歌だと思う。ほどけたような体感と口語文体が、無理なく結びつくことが陽吉には多い。

 

のつしりと顔にぶつかる曇り日の大気の重さ木下をゆけば

 

駅前の茶店にならぶ土産物 春風が吹けばぴらぴらなびく

 

 「のつしり」「ぴらぴら」などのオノマトペの面白さにも、試行の跡が見られるように思う。「のっしり」と顔にぶつかる大気、大げさすぎるような表現にも思えるが、空気の重たい湿り気が伝わってくる。オノマトペが、一回性の身体感覚に結びつく。

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