氷塊に映りておれるわがからだ輝く鋸(のこ)に引かれはじめつ

 

                                                                   落合けい子『じゃがいもの歌』(1990年)

 

 おそらく、氷屋の大きな氷なのだろう。自分の体が氷の表面に映っている。そのうち、自分の映った姿もろともに、氷が切られ始める。それはまるで自分の体が引き裂かれてゆくような変な感覚だ。日常の一コマで感じた、ちょっと変な身体感覚が読者に手渡される。

 一首としては、シチュエーションが分かるような分からないような微妙な歌である。このような大きな氷があるのはどこか、何となく屋外に置かれているような気もするが、それはなぜか。氷を鋸で引き始めたのは誰なのか、追及してゆくと判然としない歌であるが、この場合はそれでいいのだと思う。場面が確定しないようなぼんやりとした感じ、覚醒しきらない半ばの意識(といっても無意識のことではない)のなかで、ぬっと身体感覚だけがそこにある。「映りておれる」の「おれる」、「鋸に」という具体など、妙な臨場感があり、ある日の昼さがりの(とは言っていないがそんな気がする)、ちょっと醒めきらないようなときの身体感覚を掬って来ている一首である。

 『じゃがいもの歌』は落合の第一歌集。ちょっと変な感じ方や捉え方の歌が多く、読んでいて楽しく刺激を受ける歌集である。

 

刃物屋の店の奥処に目を閉じし老は死んでいたのかどうか

 

柿の木の根方に立てるきりん草おりおりにして柿の木を撫づ

 

 刃物屋の奥に店番をしている老店主のことか、あるいは店を譲ってもう隠居しているのか。店先には鋭い刃物のならぶ刃物屋さんの奥に、目をつぶって座っている老人がおり動くこともない。老人は異界にいるようでもあり、まるで物体のようである。生きているのか死んでいるのか、むろん生きているのだが、店頭から暗い店の奥を覗きこんだときの、ふとした心の揺れがここにはある。「死んでいたのかどうか」というのは大仰な問いかけであろうが、こころに浮かんだ問いを整理することなく差し出した感じでもあり、何ともおもしろい。

 柿の木を撫でるきりん草も、何でもないようでいてやはり変な感覚のある歌である。まず「撫づ」という動詞の選択が面白い。結句に来てのいきなりの擬人化であり、「撫づ」という行為にほんのりとエロスを感じるというと言い過ぎだろうか。そして、柿の木が「撫でられる」のではなくきりん草が「撫づ」のである。もちろんそれで間違いはないのだが、どこか主客が転倒したような感じさえ受けるのはぜだろうか。

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