人間の生膽(いきぎも)を取る世となりて紅葉(もみぢ)の錦神のまにまに

                       前登志夫『野生の声』(2009年)

 

 人間の生膽(いきぎも)を取る世とは、現代のことであろう。医療が発達し、臓器の移植も可能となった時代。現代への懐疑的な眼差しもあろうが、むろん臓器移植に反対する歌ではない。臓器移植さえ可能になったこの時代を自分が生きているということへの驚きのようなものが感じられる。吉野に隠棲して長く歌を発表し続けたこの作者には、「紅葉の錦神のまにまに」の時代から、いや古代から数千年を生きて来たような時代感覚があるようにも思え、その時間の最後である現代に生膽がとられるようになった驚き、それが歌に発露しているようにも思われる。「紅葉の錦神のまにまに」は古典のフレーズでありながら、取り出された生膽の赤と重なりなまなましい。古代の景と現代が一気に繋がって読者に強烈なイメージとして迫ってくる。

 もうすこし深読みすると、『野生の声』は前の死後纏められた最晩年の歌集である。肝臓を病んだという前だが、病院でさまざまな治療をすることも多く自らの血を眼にすることも多かったのではないか。そのとき、生膽を取られるような感覚になったのかも知れないし、血のイメージが広がったのかもしれないと思う。何となく作者自身の身体感覚を私などは感じてしまう。

 

樹のしたにながく憩へる山伏はをみなを欲しと言ひて去りゆく

 

うるはしき山姥となりしわが友ら色とりどりの菓子を分け合ふ

 

高層のビルの窓辺で削らるる奥歯の洞に標縄をせむ

 

人間の記憶の奥はいづこにや射たりし雲の角のしたしさ

 

もの書きて疲れしわれをさすりくるる観音菩薩いづこよりこし

 

現代と古代、聖と俗を行き来する時間感覚、空間感覚は驚異であり、最晩年の作になっても一段と冴えを見せている。

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