米川千嘉子『夏空の櫂』(1988)
桜が散る。はじめの数片はひら、ひら、とのどかに舞っているが、風が吹くと一気にざあっと散って、とめどない。
少女がピアノの練習をしている。両手を鍵盤の上に置き、低い音から高い音の方へ、一心に指を動かしていく。
カノン様式には様々な種類があるが、ここでは、初めに提示された主題と逆回しの旋律を繰り返す、逆行カノンがふさわしい。下へ下へと散っていく花びらと、上へ上へとのぼっていく音階が、美しい対比をなしている。
もちろん、「音階をのぼる」という言葉は単にカノン様式を表しているのではない。そこには、迷うことなくすくすくと成長していく、少女自身の姿が重ねられている。
しかし、「わが少女期の」という言葉は、既に少女期を通り過ぎてしまった、という明確な自覚がなければ使えないだろう。「われ」は今、少女だったかつての自分を、まるで小さな妹を見守るかのように振り返っているのである。
さて、今週の3回は「散る花」の歌ばかり集めてきた。
春の日のななめ懸垂ここからはひとりでいけと顔に降る花 盛田志保子
ムービングウォークの終りに溜まりたるはるのはなびら踏み越えてゆく 光森裕樹
花の散る速度と競ひ音階をのぼりたりわが少女期のカノン 米川千嘉子
どの歌も、「少女期」や「青春期」を散る花に重ねているが、盛田志保子の歌は青春の終わる直前をキャッチし、光森裕樹の歌は青春が終わった直後を自覚し、米川千嘉子の歌は、遠ざかってしまった少女期を眩しく思い返している。
盛田・米川の歌は20代半ば、光森の歌は20代の終わりの作品。大きな年齢差はないが、「若さ」に対する距離の取り方が、微妙に異なっているのが興味深い。
ただ、どの歌にも共通して言えるのは、太平洋戦争中盛んに歌われた、軍国主義に殉じていく青年の象徴としての桜とも異なれば、戦後に作られた、たとえば、
ふぶきくる桜のもとに思ふこと押しなべて暗したたかひの惨 岡野弘彦
さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり 馬場あき子
といった歌の重厚さとも異なっている、ということだ。
編集部より:『米川千嘉子歌集』(『夏空の櫂』を全篇収録)はこちら↓
http://www.sunagoya.com/shop/products/detail.php?product_id=689