われ主流きみ反主流なかぞらの梢へだてて咲く紫木蓮

 

                            小泉史昭『ミラクル・ボイス』(1996年)

 

 「われ主流きみ反主流」とあるが、一瞬えっと立ち止まる。「きみ主流われ反主流」ではないだろうかと。石川啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」(『一握の砂』)ではないが、近代短歌はどこか敗北者のものであるとのイメージが強い(実作者である、現代歌人も半ばそう思っているところがある)。そのようなイメージを逆手にとり、一瞬にして読者を混乱に陥れるフレーズである。口語の一見軽いような歌い出しの文体も、毒のあるアイロニーとしてふさわしい。

 そして、第三句以降の描写はなかなか見事である。「なかぞらの梢」はなかなか出て来ない言葉であろう。なかぞらをすうっと梢が伸びていっており、それをへだてて紫木蓮が鮮やかに咲いている。梢によって空が区切られているようであり、その向こうには花の華やぎがある。それは「われ」と「きみ」との境界でもあるようだが、そういう理屈とは別に「なかぞらの梢へだてて」には作中主体が空を見上げるときの角度のようなものが感じられ、その視点にリアリティー、部分的な臨場感があると思う。理屈の歌ではなく歌にしっとりとした重みを持たせている。

 本歌は歌集と同名の一連からなる、第36回短歌研究新人賞(1993年)の受賞作に含まれるものである。受賞作のなかでは特筆される歌ではないかも知れないが、物事を批評したり価値を倒置させる力、口語の戦略性など、ゼロ年代あるいは10年代短歌では急速に衰えているような短歌の要素があるように私には見える。

 

一芸にひいでるといふことなくて淋し 猩猩蠅の遺伝子

 光琳派もどきの梅に鶯がこころゆくまで微温的なり

 鯉のぼりの鯉を欠いたる矢車が全速力で回転しをり

 志士・烈士ひしめく墓地に白南風(しらはえ)がかよひをり日の本は空梅雨(からつゆ)

 

 最後の歌(それ以外もそうだが)「かよひをり日の本は空梅雨」の句割れ、句跨りは塚本邦雄の文体そのものとも言えるだろう。模倣という批評は簡単だが、塚本の残したこの文体の苦しいような呼吸は、後続の歌人が使い続けてゆかないとたちまち廃れてしまうようにも思う。

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