窪地に湛へゐるくらきものより生まれ飛びたつぎらぎらひかる翅たち

松平修文『原始の響き』(1983)

 

暗い池のようなところから無数のトンボが飛び立っていくところを思い浮かべてほしい。どこにでもある、日本の自然の風景だ。しかし、この一首を読んだ時に感じるのは、もっとマジカルかつ不穏な気配である。

そのように感じさせる要因は、いくつもある。

まずは、「くらきもの」という表現。池とか沼とか、具体的な場所を示していない上に、「場所」「ところ」ではなく「もの」と言い表しているため、何やら大きな生命体が別の生命体を産んでいるようなイメージが浮かんでくる。

次に、「翅たち」。こちらも「翅」の持ち主が何であるのか明かされていない。しかも、体の一部分だけがクローズアップされているので、迫力がある。

三つめは、「ぎらぎら」というオノマトペ。

そして、四つめ(これをはじめに書くべきだったかもしれない)ーー長い。思わず数え直してしまったほどの、破調/字余りだ。

自然な短歌の文体には程遠いこの歌は、しかし、不自然であるがゆえに成功している。ここには、人間の都合に左右されない荒々しい自然界の空気と、それを目の当たりにした時のピュアな驚きが、生き生きと取り込まれているのではないだろうか。

『原始の響き』は松平修文の第2歌集。ハードカバーの見返しは、ブルーブラックのインクで描かれた、魚類や両生類、昆虫、植物などのリアルなスケッチで埋められている。
 

  海で生まれた風は昆虫たちの眼がきらきらとする山頂に着く

  雨のなか来し風が部屋をとほるときかずかぎりなき蝸牛のけはひ

  真赤な雨がふりだしてどんどん草の葉は鳥となり石塊は爬虫類となり
 

この時期の松平修文の歌は異様に長く、定型をかなり崩しているのだが、生物たちの生命力によってぐんぐん外にはみ出していくような印象があり、何だか爽快である。空想的な語り口の歌も多いのだが、浮世離れしているというよりは、未知の生物の図鑑を覗いているようで、楽しい。

一方、人間に関してはどうか。

 
  友人らを撮りし写真を整理して一冊の昆虫図鑑をつくる

  みづうみのほとりの駅に電車待つひとたちは魚のかほをしてをり

  研究室では科学者たちが金属光を発する向日葵を組立ててゐた

 
昆虫たちを描いていたときと比べて幾分シニカルで、時として露悪的にも見える。
しかし、そういう見方はあまりフェアではないかもしれない。自然界からすれば、ヒトほど奇妙奇天烈な生物もそうそういないだろうから。

編集部より:松平修文歌集『原始の響き』が収録されている『松平修文歌集』はこちら↓

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