小禽(ことり)の人にさからふくちばしををりふし汝に見ればさびしき

 

                          内藤鋠策『旅愁』(1913年)

 

 小鳥が人に逆らうときに突き出す嘴のように、口をとがらせる君を見て自分はさびしくなっているという。恋人との関係がうまくゆかなくなったときの、苦しい恋の歌だろう。恋人のことを「小禽」と見ているわけであり、女性を愛玩物のように詠んでいるようで抵抗を感じる読者もいるかもしれないが、この歌の主眼はそこにあるのではない。小鳥とは、その行動や意志を人間ではコントロールできない存在である。可愛がっても、人の意志に反してさっさと逃げて行ってしまう。そのような小鳥の嘴の「汝」であるから、もう主体の意志では、彼女の自分への思いや行動をどうにもできないのである。愛していてもそっぽを向かれ、別れようとするときに甘えてくる。そんな彼女との関係性が、この比喩にはうまく出ている思う。

 『旅愁』は内藤鋠策二十六歳の折の第一歌集である。内容は、叶わぬ恋をして恋人に子供を孕ませ、子を産んだのち恋人は亡くなって(自死して?)しまう。その前後のいきさつをめぐる煩悶が歌われている作品が多く、どろどろした歌集でもある。やや露悪的な歌もあるが、自己劇化というよりも、自己暴露・自己告白的な感覚で詠まれている歌集のように思う。大雑把な把握を許してもらえれば、短歌における自然主義は啄木や善麿に見られるように瞬間瞬間の意識や気分の流れを重視するが、内藤鋠策の場合は、自己の暗部の暴露もふくめて赤裸々な感覚を歌っているように感じられた。

 

おちかかる夜の空気にいちじるしく今宵は汝のぬれて佇(た)つらむ

 銀箔のうすらつめたさいま我の唇(くち)にあり、女のさびしき生命

 女よ眼をそらせ、貧しく尖れる神経こそは忌しきものなれ

 従順の母は汝を神の児の如く思はむ、死にてうまれよ

 

 一首目、「いちじるしく」という把握にどきりとする。夜の冷えた空気にいちじるしく濡れる恋人。「佇つらむ」だから、眼の前に恋人はいないのか。どういういきさつで彼女は立ち尽くしているだけなのか判然としないが、断片的な場面を提示されるばかりゆえに、いちじるしく濡れるという妙にリアルな把握が、赤裸々な感じである。三首目「女よ眼をそらせ」と命令し、貧しいくせに尖っている神経こそが忌まわしいのだという。ここでは、女はすでに得体の知れない生き物だ。女をめぐる煩悶がぬめぬめとしたままに差し出されているだろう。

 

 このように赤裸々な歌の中で、筆者は次のような歌に注目する。

 

 睡るままにわれの黒眸あとなくながれゆきけり、かかる恋しさ

 小鳥がみな鳩ほどに見ゆ、やや遠き梢の冬の夕風の中に

 夜の海の燐光を空想し、独(ひとり)、睡眠の前の脈搏に耳をかす

 ひとり睡(ぬ)ればみぞおちにおく指尖の夜の痙攣、遠き虫

 うち見れば森の底よりうすうすと血を潮(さ)し来り明けし夏の夜

 

  恋人との関係をめぐる煩悶のなかで、ふと深層心理のようなものに届いた歌であると思う。一首目などは、独りよがな表現とのぎりぎりのラインの歌かもしれないが、君を思いつつ疲れて眠っていると、自分の眸があともなく流れていったように感じたという何とも怖い歌である。そのような怪奇な連想をするまでに人を恋うとはどのようなものだろう。二首目は恋の歌ではないが、「小鳥がみなほどに見ゆ」という把握が不気味。気分が高揚しているのか、沈んでいるのか、ともかくいつもとは違う心のテンションの中で、普段の風景が違って見えるのだろう。小鳥という小鳥がすべて大柄の鳩ほどに見えてしまったらと連想すると、怖い。四首目、これも神経が高ぶっているのだろう。みぞおちで指の痙攣を感じているという身体感覚が、苦しい。結句の遠き虫はやや無理があるかも知れないが、夜にひとりで煩悶しているところに、はるか遠くから虫の声が聞こえてくるのである。心理や感覚の深い所を探ろうとしているような試行が重ねられており、自然主義の影響を受けながらの内藤鋠策独自の試行錯誤が伺えると思う。

 

しづけさは煙の如く樹のかげのちりしける中のさくらの落葉

 机の上、インキの青は蛇の眸(め)を思はしめ、烟草のけむり舌に苦し、朝

 秋の夜の鏡をとればわが鬚のひとつひとつが呼吸する見ゆ

 

 このような、場面の見える安定感のある歌もある。「しずけさは煙のごとく」「インキの青は蛇の眸を思はしめ」「鬚のひとつひとつが呼吸する」いずれも、比喩が具体性を伴って、読者に豊かなイメージが広がる。

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