棚木 恒寿


証明写真と同じわが顔嵌まりたり帰り来て入る部屋の鏡に

                         小潟水脈『扉と鏡』(2012年)

 

外出から帰って、部屋の鏡で自分の姿を見た。そうしたら、そこには証明写真と同じ顔の自分が写っていたという。当たり前のことを言っているようでいてそうでない、むしろものの捉え方に奇異な感じがする一首だと思う。証明写真は、普段の自分の顔とは違ったふうに撮られる(多くは不満の残る写りになる)ことが多い。真正面から撮られて、自分の顔の不満な所も晒されてしまうようになっている。いつもの自分とは違うなあと感じる人が多いだろう。そんな証明写真と同じ顔が、自分の部屋の鏡に映っているという。どこか固い感じ、他人に作られたような自分の顔を見つめている。しかも「嵌りたり」なのである。鏡のなかに嵌っている、押し込まれているという感覚はたいそう窮屈だ。自分の顔は変わるものではないけれど、家では証明写真のような顔をしてはいけないはずだ。そこには帰宅した時の、作中主体の深い疲れとそれに伴う錯覚のようなものがあると思う。

往復が混じりて一筋蟻の列アウトレットで喪のスーツ買ふ

シェパードに引かれてをりし老人が最近再び老シェパード引く

一日が他の一日に似たる日々胴震ひして鵯飛びたつ

「無理やて」と言ふ声ありて十字路にケイタイ持つ人ついと出でたり

 

一首目、蟻の列が一筋ゆくというだけではなくて、「往復が混じりて」という観察が面白い。往く蟻と戻ってくる蟻とがあり、そこでちょっと列が乱れていたりするのだろうか。なぜだかそういう細かいところに主体の神経はゆくのである(蟻はアウトレットに並ぶ人の比喩と考えられなくもないが、ここではその読みは採らない)。そして、黒の連想か、喪のスーツを買うというところに話題は及ぶ。アウトレットで喪服を買うということへの、わずかな抵抗を感じつつ、歌はそこに焦点化されるわけではない。上の句から下の句への意識の飛躍に、読者は反応するのではないだろうか。二首目は、割と理屈で出来た歌だろうか。シェパードに引かれていた老人だが、シェパードまでが老いてしまったので、ふたたび犬を引いて散歩していたというのである。衰えるシェパードへの心寄せというよりも、「最近再び」というような冷静な観察にも思える記述が面白い。「老シェパード引く」という言葉遣いも、歌のセオリーでいうやや強引な語法だが(「を」が必要でないかなど)、この作者らしいとも思う。四首目、携帯で話しながら交差点を歩きだす人のことを詠んだ歌だろうが、この歌もよく読んでゆくとちょっと文体が面白い。「無理やて」という声がいきなりどこかかから聞えたと同時に、携帯を持つ人がそこに発生したかのような不思議な感覚が、「言ふ声ありて」「ケイタイ持つ人ついと出でたり」という因果の付け方と「ついと」というオノマトペによって、出てくると思う。

 

呼び鈴の釦すかすか音立てる伯母越しゆきし後の門口

この高さ下(お)りてゆくもの思ひたり十八階にトイレ流して

上・下水道めぐりてつながる家々のひとつひとつがインターホン持つ

先と同じ場所でオムレツのにほひする傘置き忘れて戻りゆく道

 

日常であって日常でない、何かからずれたような作者独特のものの感じたかた捉え方が所々にあり、注目する。