手の触れる範囲に誰かきつとゐるガマの闇からひそひそと声

佐藤理江『避雷針の先端の銀』(2008年)

子供のころ、家の近所にいくつか洞穴があった。
関東ローム層とよばれる赤土の崖にあいていて、自然にできたものとは思われない。
防空壕だった、と誰かから聞いた。
大人たちから禁じられていたが、一度だけ入ったことがある。
戦争中の痕跡はなにも見つからず、なかはただ空気が、しんとつめたく湿っていた。
日があたらないのと空気の出入りのすくない所為だが、なんとなくずっと昔の空気や人の気配が、そこにとじこめられているような気がした。

ガマとは防空壕として使われた沖縄の自然洞窟。
沖縄地方だけの言葉ではないらしく、手許の辞書には、岩石や地層のなかの空洞をさす一般的な言葉として載っている。
石灰質の土壌は洞穴ができやすく、沖縄全島には1000から2000におよぶ大小のガマがあるといわれる。
例えば、玉城村糸数にあるアブラチガマは、全長270メートルの病院壕で、1000名近くの傷病兵を収容していた。

高校教師である主人公は修学旅行で沖縄を訪れた。
見学する暗い壕のなか、生徒たちは怖がったり、はしゃいだりしながら、「絶対ここに誰かいるよ」などと囁きあう。
暗闇のなかで、肩をふれあう生徒たちの影が、一瞬、60年前の地上戦のさなかそこにひそんでいた人人の影に重なる。
薬も乏しい暗い壕のなかで、息をひそめて苦しむ兵士たち。
麻酔も無く手足を切断された兵士のエピソードが伝えられているが、苦しむ兵士を押さえつけ、切断された手足を運んだのは、ひめゆり、白梅、などと呼ばれた高等女学校の生徒たちだった。

手の触れる範囲、にいるのは実際には自分の教え子の生徒たちだ。
しかしその表現からは、手探りの闇のなかで過去の事実にふれる主人公の皮膚感覚のようなものが感じられて切ない。
声、は生徒たちの声であり、地上戦のさなかそこにひそんでいた人人のまぼろしの声でもある。
比喩とか象徴とかいうのではない。その存在を肌と耳でたしかに感じたのだ。

昨日、6月23日は沖縄戦で組織的な戦闘が終わった日だった。

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