魚村 晋太郎


桑の實數千(すせん)熟れつつ腐るすでにして踰(こ)ゆべき海も主(しゆ)もわれになし

塘健『出藍』(1989年)

桑はかつて蚕の餌として栽培されたが、最近は養蚕にも人工飼料が使われたり、養蚕自体が少なくなったりして桑畑も減った。
春から初夏にかけて、葉腋に黄緑色の花穂をつける。
桑、桑の花、は春の季語で、桑の実は夏の季語。
手許の歳時記には、実は7~8月に熟すとあり、そういう種類もあるのかも知れないが、近所の桑は一首のようにすでに熟してたくさんの実を落としている。
子供の頃食べてはいけないと言われながらこっそり摘んで食べたものも、入梅の前後には熟していた気がする。
実は熟すと黒紫色になり、食べると口の中がその色に染まった。

英語が喋れる、とか、海外へゆくことの意味は、この半世紀くらいでずいぶん変わった。
歌集の出版された80年代後半の日本は、バブル景気の絶頂にあり、海外へゆく人も増え、また逆に、海外への憧れはだんだんと失われていった。
いまでは公立高校の修学旅行もだいたいは海外へゆく。

そうした世相の変化を背景に置いて読んでも面白いが、主人公が前提としている海は、もっと遠い時代の海なのだろう。
例えば、19世紀に長浜万次郎が越えた海、或いは、16世紀に天正遣欧少年使節の越えた海。
ひょっとすると、阿倍仲麻呂や鑑真が8世紀に越えた海、かも知れない。
そんなはるばるとした海が、かつての主人公のこころのなかにはひろがっていた。
で、主、とはなんのことか。しゅ、と読む場合、イエス・キリストのことがまず思い浮かぶが、主君のことかも知れない。
いずれにしても、海と並んで、越えるべきものの象徴、代表として読めばいい。

夏の光を浴びてゆっくりと熟す葡萄や梨とくらべたとき、盛夏を待たず固まった血のような色に熟して落ちる桑の実には、なんだか無慚な感じがある。
青春の終り、或いは、壮年のはじめの断念に似合うのだろう。
そして、断念とは、望みが叶わぬと知ることではなく、いつのまにか望みがなくなってしまったことに気づくことにほかならない。
初句7音の盛り上がった韻律の波が2句切れのところでくだける。3句目から4句目にかけて、後を追うように小さな波が頭をもたげ、結句に向かってすみやかにくずれてゆく。
やや観念的な一首の、韻律のなんとなまめかしいことか。