わが生みて渡れる鳥と思ふまで昼澄みゆきぬ訪ひがたきかも

山中智恵子『紡錘』(1963)
 
 
そろそろ、ツバメの旅立つ季節だろうか。
 
勤め先の駐車スペースにはツバメの巣がひとつかかっている。春には確かに一羽のツバメが来て、住まいを修繕しかかっていたのだが、子育ての始まる前にどこかへ飛び去ってしまい、二度と姿を見せなかった。どうも、巣のすぐ下で半日ほど舗装工事があったのがいけなかったらしい。その後の半年間、空っぽの巣を見上げては非在のツバメを意識していた私としては、何となく物寂しい秋である。
 
さて、山中智恵子の有名な歌だが、正直言って、うまく解釈できている自信はない。自分の体から生み落とされた鳥が、空の彼方へと渡っていく。そのように澄んでいく昼の空を、訪れがたい地のように眺めている。自我から遠く隔たったところにある、澄みきった世界よ……といった感じだろうか。
 
よくわからないなりにも非常に美しく感じるのは、「わが生みて渡れる鳥」というフレーズだ。渡っていく鳥を、自分の体の一部のように感じること。その鳥が、われの手に届かない遠い国まで飛んでゆくこと。そのイメージに、言い知れぬ寂しさと、憧れの両方を感じる。
 
 
  とどろける夕映の底に鳥らを鎮めたしかならざる手をひとに措く
 
  囀りはあかるき挫折 思ひより遠くひろがる鳥の浮彫(レリーフ)
 
 
夕映の底に鳥を鎮める手の持ち主は、果たして人間だろうか。地上で囀る本当の鳥とイメージとしての鳥とでは、どちらが遠くまで羽ばたいていけるのか。
いずれの歌も、ひとりの人の思念をはるかに超えてゆくような、スケールの大きさが魅力である。
 
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今回も更新が大幅に遅れて申し訳ありませんでした。残り3ヶ月、がんばれ私(と棚木さん)!

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