棚木 恒寿


夕さればそぞろあきりす銃器屋のまへに立ちてはピストルを見る

 

萩原朔太郎

 

今日は、詩人である萩原朔太郎の短歌より。夕方なって、主体は街を何とはなしに歩いていた。目的もなくふらふらしていると、銃器屋がふと眼に入る。店の前に立って、しばらくピストルを眺めていたという歌だ。主体の心を占めていたものは何か。それは憂愁の感覚でないだろうか。どこか晴れない気持ち、重いこころを秘めながら街を「そぞろありき」する。その疲れた心が、銃器屋に展示されていたピストルの硬質感に反応するのである。ピストルを見て、死を思ったとかそういうことではないと思う。憂鬱の心が、ピストルの材質の硬質感と冷えにふと寄ってゆく。人間の温かさよりも、鉄の冷たさの方に心は吸いつけられるのである。極めて感覚的な歌であると思う。それと同時に「そぞろありきす」「ピストルを見る」には、自分を少しだけ客体化してみているような視点もあり、憂愁の自分を意識化しているような気配もある。

 

 

幼き日パン買ひに行きし店先の額のイエスをいまも忘れず

 

行く春の淡きかなしみいそっぷの蛙の腹の破れたる音

 

 

一首目、昔パンを買いに行った時の店先の額のイエス、まるでフラッシュバックのようにその映像が立ち現われる。イソップ物語の蛙の腹の破裂を、今まさに聴いているような主体の感覚。はるかに離れた時間や場所の知覚が、今・ここに引き寄せられてきて再生される。そこには鮮やかさとかなしみがある。

 

 

材木の上に腰かけ疲れたる心がしみじみと欠伸せるなり

 

 

こころがしみじみと欠伸すると言う見立てもおもしろい。自分の心理を宥めすかしているような感じもある。自分のこころが見え、しかしそれをどうしようもなかった詩人の姿が立ちあがる。