「わたくしが堅くし、たくし上げた和紙を託してみても白紙のままね」

中島裕介『Starving Stargazer』(2008)

 
新刊『もしニーチェが短歌を詠んだら』が話題の中島裕介だが、あえて第1歌集から。便宜上、日本語部分だけを引用してみたが、本来の「一首」は、

 
   「わたくしが堅くし、たくし上げた和紙を託してみても白紙のままね」
 It costs a cosmos to cast away its corruption. Both of them are made by cosine.
 

という形をしている。作者のあとがきによれば、これは「短歌にも『私』以外の他者を導き入れようと試みた結果」編み出された、「外国語に日本語のルビ(外国語の直訳ではない)を付けた多言語短歌形式」、「多声のコンポジション」なのだという。なるほどー。……ごめんなさい、嘘だ。全然わからない。
普通、ルビ(ふりがな)というものは、読みの理解を助けるために振られるものだが、ここでは、読み方も意味も全然合っていない。というか、意味自体よくわからない。
 
唯一の手掛かりは、英語の方は「cos」(=コサイン)の文字が多用されており、日本語の方は「わたくし」「堅くし」「たくし」「和紙」「託し」「白紙」と、似たような音の言葉が畳みかけられている、ということくらいだが、言葉が重なれば重なるほど、むしろ意味が拡散していくような気がして、混乱する。
 
複数の声や様々な分野の知識を無理矢理ひとつにまとめようとした挙句に空中分解させて「白紙」に戻してしまったかのような、深遠な実験作にも見える一方、言葉をくるくる回して遊んでいたらたまたまこの形になりました、というラフな即興性も感じる。読者は、散りばめられたヒント(らしきもの)を拾いながら、解釈の出口を求めて延々さまよい続けることになる。その危うい試みを辛うじて成立させているのが、短歌のリズムと頭韻なのだ、と思う。
 

   「ブルータス、お前もか?…俺もだ!」と言い、舞台を降りる日を待っている
 Brutus drove him on to say “This was the most unkindest cut of all.”
 
   未知であり続けなければならない僕はシュレーディンガーの猫と叛乱
 Cat is in the case, the fact, is the existence of atomic facts.
 
 
これらの歌(の、日本語部分)からは、作者の立ち位置が比較的よくわかるような気がする。
 
歴史や演劇、物理学などさまざまな要素を取り込みながら、「未知であり続け」ようとする僕。そして、その「僕」の存在さえも相対化してしまおうとする強い意志が、この奇妙な文体を作り出したのではないだろうか。
 

 
さて、『もしニーチェが短歌を詠んだら』は、ニーチェの言葉を5・7・5・7・7のリズムで「超訳」した、コンセプチュアルな一冊。
 

 

  脱皮することのできない蛇(くちなわ)は滅びるだろう 精神もまた

 

  威厳とは人が感じているだろう恐怖を偽装する方法だ

 

  没落せよ! より没落ができるよう助けてやるのもわたしの愛だ
 

 

といった歌が、簡単な解説と一緒に並べられており、一見、「わかりやすいニーチェ入門書」のような顔をしている(というか、そういう風に受け取る人がいても一向に差し支えない)。

しかし、「ニーチェが日本語と短歌を知っていたならば、短歌を作っていただろう」という作者の弁に「本当にそうか?」とツッコミを入れるのは、この本にとってそれほど邪道な反応ではないと思うし、むしろ、「入口はわかりやすいと思ったのに、入ったら迷路だった!」とモヤモヤした気持ちにさせられてこそ、言葉は/短歌は/哲学は面白いのではないかと、『Starving Stargazer』を読みながら思ったのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です