ともだちはみんな雑巾ぼくだけが父の肌着で窓を拭いてる

岡野大嗣『短歌の夜明けらしきもの』(2012)
 
小学生の頃は、定期的に雑巾を学校に持っていくことになっていた。確か1家庭につき2枚と決まっていて、始業式だか大掃除の日だかに回収するのだったが、私はそれを結構忘れがちで、前日の夜遅くになって「明日雑巾持っていく日だった」と母に申告し、なぜもっと早く言わないのかと怒られた記憶がある。
 
さて、岡野大嗣の歌だが、意味は一目瞭然でほとんど解説を必要としない。何と言っても秀逸なのは「父の肌着」だろう。使い古しのタオルでも手ぬぐいでもなく、肌着。しかも、父の。「これを持っていけ」と持たされたときの悲しみ、それで窓を拭いているときのやるせなさを想像すると、何とも切ない。
過去の記憶としてではなく、「窓を拭いてる」と現在進行形で書いたことで、小学生のひりひりするような気持ちを、鮮明に描き出すことに成功している。この種の悲しみは、子どもの頃には毎日のように感じていたし、大人になった今ではなかなか体感できないものであるように思う。
 
『短歌の夜明けらしきもの』は、「何らかの歌詠みたち」名義で発行された小冊子(岡野大嗣編集)。「何らかの歌詠みたち」は短歌朗読のために結成された不定形ユニット(?)で、今年7月に行われた朗読会には、岡野と木下龍也、飯田和馬、飯田彩乃が参加した。『短歌の夜明けらしきもの』は、当日朗読された短歌に写真が組み合わせられており、朗読会当日の雰囲気が伝わってくると同時に、読み物としても楽しい仕上がりになっている。
 
他の作者の歌も1首ずつ挙げる。
 
  ジュード・ロウみたいにかっこよく禿げる夢は叶わずただ禿げて死す
木下龍也
 
ジュード・ロウの額については常々思うところがあったのだが、あれは「かっこいい禿げ」というものだったのかと、この歌を読んで妙に得心がいった。……という個人的な感慨はともかく、「ただ禿げて死す」というあっけない結句が、おかしくも物哀しい。
 
  「嫌いだ」をあわてて「苦手」と言い換える開けっ放しのガラス戸のカフェ
飯田和馬
 
この一首だけだとちょっと解釈に迷うのだが、作中の語り手ではなく、一緒にカフェにいる誰かが「言い換え」たのだと読んだ。「嫌い」という強い言葉を使ってしまったことを瞬時に恥じて「苦手」と言い直す(友人?恋人?の)潔癖な人柄や、若干ぎこちない会話運び+オシャレなカフェという組み合わせから、その場の空気感が伝わってきて楽しい。
 
  影のため生まれる光と知りながら君のひたいの星ばかり見る
飯田彩乃
 
強い光を放つ人に否応なく惹かれていく、危うい憧れのようなものが、繊細に描かれている。

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