石川 美南


おなじ地におなじ木ならび今日もまたおなじ葉と葉とあひ触れて鳴る

尾上紫舟『永日』(1909)

 

不思議な味わいの歌だ。「おなじ地」「おなじ木」「おなじ葉」と徐々に景を絞っていくことで、細部に至るまで昨日と等しい、個性のない「今日」を描いている。

加藤将之はこの歌について、「ここには作者の感情の表出はない。ただ、嘱目の事実を投げ出しただけである。だから、作者はこの歌によって、明かるい幸福感を述べているのか、現状の『今日もまた同じ』ことをしているということへの不満を抱いているのか、そこは明らかではない。どちらにもとれるが、作者は憂愁の思いで樹木の音をききとめているのではあるまいか」と書いている(『鑑賞 尾上紫舟の秀歌』)。

確かに、この歌は、作者の思いを読みとりにくい。同じ歌集の、

 

  何をもて昨日をさだめ今日を云ふ風はうたへり同じ声して

  うつらうつらけふも暮らしぬ美しう死なむと思ふ日のみ数へて

  ものいはぬ木草にまじりただひとり頭低れたるわれを我見る

 

などと併せて読むと、やはり加藤が解釈する通り、判で押したように同じ日々が続くことに倦んでいる、と受け取るのが自然なのかもしれない。

しかし、「あひ触れて鳴る」という言葉からは、憂愁とばかりは言い切れない、強いて言えば、微かな驚きのようなものが感じられないだろうか。

整然と並ぶ街路樹の葉が、互いに触れ合って立てる音。それは、昨日と全く同じようでありながら、二度と繰り返されないものなのである。

『永日』は、尾上紫舟が34歳の頃の歌集。樹木の出てくる印象的な歌をもう1首挙げておく。

 

  神はみな葉裏みすべくつくれりと思ふやうにも木はなびくかな

 

風になびき一斉に葉裏を見せる木に、一瞬「神」の存在を感じる。ここにも、生きることへの驚きが込められているのではないかと思う。