男をの童わらべペダルの上に身を立ててこのつゆばれの夕べをきたる

玉城徹『われら地上に』(1978年・不識書院)

 

少年が自転車を漕いでやって来る。梅雨の晴れ間の夕暮れ。明るいような暗いような、ぼんやりとして、しかし、久しぶりに空が見えて光が満ちているような時間帯である。少年は一心に自転車を走らせて近づいて来るのである。焦点化された少年の姿が絵のようにうつくしい。「ペダルの上に身を立てて」の把握による。過不足のないフレーズだ。

 

アフォリズム集『藜の露』(1997年・不識書院)に、玉城の次のような言葉がある。「一つ一つの言葉の言い分をよく聴いてやらなければいけない。彼らが、それぞれの生命に輝いて出てくるように、辛抱づよく、考えてやるのである。全部の言葉が生命をもって、はじめて、一首の歌が成立する」。言葉を意味伝達の手段にしてはいけないというのである。こうした言語観が、「ペダルの上に身を立てて」という言葉を生むのだろう。

 

つるぎ葉のグラヂオラスのむら立ちに花おとろへて濁るくれなゐ

梅雨明けをためらふごとき夜半に出づ葉書ひとひら指につまみて

頭とは何ぞと問ふにジャコメッティ端的にいらふ胸の付け根

 

言葉だけではなく、モノやコトの言い分をよく聴いているなあと思う。よく聴くとは、諸々への知的関心が強いということだが、その上で「辛抱づよく」ということが、なかなかできない。

 

先ごろ、『玉城徹全歌集』(いりの舎)が刊行され、入手が困難だった玉城徹の初期の短歌作品も一冊にまとめられた。身近に読みやすくなった。