玉城徹『馬の首』(1962年)
たっぷりと、自然にうたわれていて、同時に紛れなく精神の重みがひそむ。
吐息―つく息。これは、安心した時にもつくものだが、ここではまるでそんな感じはない。
「深」いと形容される空から、重い息のように降りてきた風が、枇杷の厚い濃みどりの葉の茂りに、すっと空間をつくる。歌から押し出されてくるなにものかの感じは、この景に加えてうたい方によるものが大きいようだ。
「ゆ」という唇をすぼめて出す音に続く、「ごとく」ならぬ「ごとも」の、「も」の重さ。
風がおりくる、で済ませられるところを、「おり来たる風ありて」とわざわざ鈍重に運ぶうたいぶり。ここが句またがりになったあとの、句切れを含む四句目の八音。
最後の「つ」という、あとをひかない音は、そのu音が初句の「ゆ」に照応している。
そして、この一連の運びには、頭から初句の六音がのしかかる。
しかし、こんなことをちまちま分析していると、大事なものをつかみそこねる気がする。
なんというか、深い吐息がそのまま一首として流れ出たような歌なのである。
風に分かたれた、ほんのしばらくの間のすきまは、何かの通路のようでありながら、この精神はそこを抜けるでも、滞るでもないようだ。そこに在って、ただ佇む。「葉むらをわかつ」が、最後に鮮やかな印象を残すことが、何やら読後にさびしさを与える。
精神と自然とが、深いところで分かちがたく結びついて感じられる、このような歌はどうしたらうたえるのだろう。