春の日を家居せりけり擦れ違ふ人なくて曇りゆくわが面(おもて)

大松達知『スクールナイト』(2005年)

春愁、といふ季語がある。春の物憂い気分をいい、しゅんしゅう、或いは、はるうれい、と読む。
春愁に対して、秋の寂しさにさそわれる物思いを、秋思、という。
どちらも、メンタルな状態をさす数少ない季語で、夏や冬にはそのような季語がない、のも面白い。
主人公が表情をくもらせるのには、何か特定の原因があるのかも知れないが、春の日を、と詠いはじめる一首には、春愁の雰囲気が自ずとただよっている。

誰にも会わず家にこもっていると、気分がふさいでくることは誰にでもある。
特定の誰かに会えないことではなく、擦れ違う人がいない、ということを気がふさぐ理由というか、契機としてもってきたところが、一首の面白さであり、人のこころのありようを実にうまく捉えている。

人は知らない人の前で、自分の感情をあらわにすることはなかなかしない。
人人と擦れ違いながら街をゆくとき、つとめて平静をよそおうような気持ちが、ほとんど無意識のうちに、たしかに働いているような気がする。
逆に言えば、人のこころは、擦れ違う他人からはりを与えられてやっと立っているような、たよりない存在だ、ということでもある。

家居、というすこし古風な言葉が格好よくきまっている。
自分の表情がくもることを、曇りゆく、と漢字で表記しているところ、作者の意図するところかどうかはわからないが、花曇り、という季題などもよりそってくるように思えて、味わい深く読者は感じるのだ。

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