関根榮子『旅枕』(2007年)
シナモンの香り立つ紅茶飲みながら夫も知りゆく午後の時間を
春のため力蓄うる球根のなかでも大きな山百合選ぶ
れんげ田を見るための旅に多田・田沼・堀米・下野の小駅続けり
朝顔のひらく力を貰うべく蕾を両手に包みて持てる
土止めの丸太にかける足先に力与えて落椿あり
天秤に売り行く媼の葱の束少し減りおりまた出合(でくわ)して
利根川の鉄橋をいつも描きていし少年が大人になりて現る
自然や身近な人びとを素材としながらも、それらを描写することが目的ではなく、あくまでも自己を課題とした作品たち。自己がくっきりと立ち、そしてやわらかな。関根榮子の作品は、そんな印象とともに読者に届く。
「シナモンの香り立つ紅茶飲みながら夫も知りゆく午後の時間を」における夫に対する、「天秤に売り行く媼の葱の束少し減りおりまた出合(でくわ)して」における媼に対する視線が同じ水準で提示されていることが、彼女なのだとも思う。
前よりはきたらず後より追いついて追い越されゆく齢とおもう
確かにそうだ。前からは来ない。そして、後ろから来て、追いついて、追い越していく。それが齢だ。
初句から三句の主体は「齢」。四句の主体は〈私〉。この変化が、実感を捉えて巧みだ。四句は終止形とも連体形とも取ることができるが、前者では、齢を重ねてきたことが、後者では、齢の現在性が詠まれていることになるだろう。いずれにしろ、一首全体の流れは屈折しており、だからこそそれが一首の豊かさになっている。
私たちはある年齢になると、それまでの自分との比較で自分を意識する。年を取った、弱くなった。たとえば、そんなことばが出てしまう。老/若、強/弱。しかし、こうした二項定立にもとづく思考は、私たちの生にとって常に有効とは限らない。「追い越されゆく」。追い越されたあと、私たちの生はどうあるのか。
問いは穏やかに、そして鋭くある。