まるまると尻割れズボンよりこぼれたる白桃ふたつ小川に映る

有沢螢『ありすの杜へ』(2011年)

 

尻割れズボンは、中国のベビー服だ。股の部分が深く切り取られており、履くと股下がぱっくり開いて、臀部が丸出しとなる。風通しがいいのでおむつかぶれが出来ず、どこでもすぐ用が足せ、かつおむつも早く取れるようになるなど、生活の知恵の結晶にして中国的な合理性過激性極まる衣類だ。股割れズボン、桃割れズボンとも呼ばれる。ごくあたりまえの子供服として流通しているので、中国に行ったことのある人なら、街中で目にしたことがあるだろう。

 

〈まるまると/尻割れズボンより/こぼれたる/白桃ふたつ/小川に映る〉と5・9・5・7・7音に切って、一首三十三音。尻割れズボンからまるまるとこぼれた、小さな子の白桃のような尻が、小川に映っている。行きずりの〈わたし〉は、それを見ている。

 

「尻割れズボン」ということばを、短歌に持ち込んだのがおもしろい。「桃割れズボン」で行く手もある。「桃」のリフレインが楽しくひびく。だがそうすると、このズボンの形状を知らない読者には解読不可能な歌になってしまう。「尻割れ」の方がいいと作者は判断した。二句「尻割れズボンより」の「より」も判断の結果だろう。「尻割れズボンゆ」とすれば8音で収まるが、いかにも取ってつけたようになる。「ゆ」を使ってさまになる現代短歌は、岡井隆〈ホメロスを読まばや春の潮騒のとどろく窓ゆ光あつめて〉(『鵞卵亭』1975年)あたりが最後ではないか。

 

子供の尻が川に映っているのだから、用足しの場面と読む。大か小かはわからない。子供の性別も読者の想像にゆだねられている。いずれにせよ、「白桃」の主はおむつが取れたかとれないかくらいの幼児であり、桃は「まるまると」して健康的だ。空は気持ちよく晴れあがり、小川の水はきらきら光っているだろう。また、「白桃」と「小川」の取りあわせは、桃太郎の昔話をたぐりよせ、読み手の頭の中で、尻割れズボンの桃と、どんぶらこと流れて来る桃の姿が重なりあう。無邪気さを装った官能性とでもいうものが、ここにはある。

 

夏の日のひとつひとつを受け入れて金魚鉢膨張しつづけてゆく

 

歌集には、こういう一首もある。「夏の日のひとつひとつ」は、暑くてものうい夏の一日に起きるもろもろのこと、ほどの意味だろう。〈わたし〉の部屋の金魚鉢は、それらのことを受け入れてどんどん膨らんでいくように見える。「金魚鉢膨張」というぐちゃぐちゃとした漢字のかたまりが、生々しく不気味だ。一首には、官能的なけだるさがただよう。

 

『ありすの杜へ』は、『致死量の芥子』『朱を奪ふ』に続く、有沢螢の第三歌集だ。タイトルを並べるだけで、浪漫派歌人としての作者の資質は明らかである。

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