小塩卓哉『風カノン』(1992年)
花の名前をよく知る人のなつかしさをこの町を行く人は持ちおり
こうやって春は終わっていくのだと子に告げる夜の風は凪ぎおり
サーカスはすでに隣の街におり閑散とせし空き地に遊ぶ
恋愛にためらいというルビふりて二人夕陽の中にさまよう
手の平に収まる石を選ぶべし向こう岸まで届け心も
我の知らぬところに燃えていし炎気づかせて後君は去りたり
まざまざと眺めておれば卵とは争うことを知らぬ形よ
枯れ色にもう抗わぬ冬の街に赤信号は明滅しおり
『風カノン』。この繊細な響きをもった一冊は、まぎれもなく繊細な作品たちを収めている。たとえば一首目。「花の名前をよく知る人のなつかしさ」。花の名前をよく知っている人をなつかしいと感受すること。「なつかしさをこの町を」。三句の字あまりと「を」の重なりが若干ぎくしゃくするものの、ていねいに置かれた三句の「を」の一音。「この町を行く人は持ちおり」。町を行く人への視線。あるいは五首目。「手の平に収まる石を選ぶべし」。自らを見つめる謙虚さ。「向こう岸まで届け心も」。「心も」とことばにするストレートさ。
繊細さは、素直さが生み出しているのだと思う。素直さは穏やかさ。「燃えていし炎」というフレーズが置かれていても、一首は穏やかだ。
枯れ色にもう抗わぬ冬の街に赤信号は明滅しおり
「枯れ色にもう抗わぬ冬の街に」。すっかり冬が深まった街。それまでは、枯れ色に抗っていたのだ。確かにそうだ。冬の訪れを受け取る気持ちはあるけれど、それに抗いながら、私たちの生活は冬を深めていく。「もう抗わぬ」に、小塩のらしさがあるのだと思う。そして、三句の「に」にも。「に」を置くことによって、ゆったりとした韻律になる。このゆったりしたところに、自らのこととして風景を受け取っている小塩の心が見えるように思うのだ。
「赤信号は明滅しおり」。赤信号の点滅は、歩行者と車両では違うが、それぞれに意味がある。しかしここでは、その意味を知らなくても構わないだろう。赤信号が点滅していること。そのこと自体が、一首の要である。