フライパンに胡麻をゆすれば胡麻のなき円形現はる つねに一か所

花山多佳子『木香薔薇』(2006年)

 

もしもあなたが短歌の作者で、かつ歌会に参加する人だとしたら、初めて歌会に足を運んだときのことをよく覚えているだろう。未知との遭遇だ。私にとって歌会の初体験は、2002年の一昨日7月21日だった。塔短歌会の東京歌会に、見学者として詠草と共に参加した。出席者二十数人。公民館の一室で机を動かしたり茶菓子を配ったりする人々を見て「この人たちみんな歌人? 生きて短歌を作っている人が、世の中にこんなにいるの?」と半信半疑だった。短歌に無縁だった者にとり、歌人の実物はそれほど珍しい存在なのである。

 

一首は、花山多佳子がこの歌会に出した歌の完成形だ。作者名を伏せた詠草表には、〈フライパンに胡麻をゆすれば胡麻のなき円形現はるつねに一カ所〉という形で記されており、歌集収録にあたり冒頭に掲げた姿になった。

 

〈フライパンに/胡麻をゆすれば/胡麻のなき/円形現はる/ つねに一か所〉と6・7・5・8・7音に切って、一首三十三音。胡麻を入れたフライパンを、火にかけながらゆすると、なぜだかいつも胡麻の一か所に、フライパンの底が丸く現れる、と歌はいう。胡麻を炒ったことのない人は、何の話かと思うかもしれないが、炒ったことのある人にはすぐに了解される現象だ。この日の歌会でも、「わかる、わかる」「ゴマってそうなるのよね」などの声があがった。一首の総合的な評価は、目のつけどころがおもしろい、というものだ。「それが何なの?」という初心者的な感想を抱いていた私にとって、意外な評価だった。短歌とは、どうでもいいことを面白がる詩なのか。

 

さらに意外だったのは、歌会の最後に作者名が明かされたときだ。「だから何?」といいたくなる歌の作者は、その部屋にいる生身の歌人の中で、私の観察によればそういう歌を一番作りそうにない人だったのだ。ただそこに座っているだけなのに、「あの方はどういう方?」と隣席の人に聞きたくなる貫禄オーラを放っている人。作るなら〈夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ〉のような歌を作りそうな雰囲気の人。それが花山多佳子だった。

 

いまでは私にも、花山作品の目のつけどころの面白さがわかる。また、作品の印象と、作者当人の印象が一致するようになった。だがそれは、花山作品を読みつぐうちに、私の中で作者像が修正されていった結果であって、いいことか悪いことかはわからない。作品から受ける印象とは別に、作者当人は、第一印象通りの人だということもあり得る。

 

ともあれ、歌会詠草は後日歌集に収められた。美しく活字に組まれた一首を歌集で見たとき、ああ私はこの歌の生まれる現場に立ちあったのだと思った。名付け親の友達の友達くらいになった気分だ。晴れがましい。この歌の行く末を見守らねば、とそんな気になってくるのである。

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