吉野 裕之


夫と子と季節のはざまに変態し擬態し女らやはらかくゐむ

川野里子『青鯨の日』(1997年)

 

草の葉に羽ある虫はきて憩ふ一日ほどけし初夏のほとりに

飛行機は夏空へ気化を終へむとし吾は歩むなり自転車を押して

この空のほつれ目のどこか明るみて水仙の伸びて流るるかなた

 

30代は、成熟に向かいつつ、まだ若さや不安を抱えた年代なのだと思う。川野里子の歌集『青鯨の日』から、たとえばこんな作品を引いてみる。

一首目の「ほどけし」「ほとりに」、二首目の「気化」、三首目の「ほつれ目」。こういったあたりに向けられる視線、あるいはこういった把握。それは、ほころびや境界といったものへの関心。まだ名づけられてない何かを期待する意志、ということだろう。成熟は、既存の体系のなかでなされるのではない。

 

夫がもつ柔らかいからだ堅いからだある日波うちわれをとりまく

おもしろき男なりけり妻と仕事といづれと問ふに苦しみをりぬ

湯豆腐のほのあかり運ぶ夫の箸ふるへながらに運び終へたり

 

夫という存在の、日常におけるかすかな揺れを掴んで巧みだ。したたかといってもいい。知と情のバランスがそれを支えている。

夫。それは約束。約束を守りながら、妻である〈私〉は彼を見ている。そして、その輪郭を確認していく。

 

夫と子と季節のはざまに変態し擬態し女らやはらかくゐむ

 

「夫と子と季節のはざまに」。身近なものたちのはざまに、ということだろう。季節の一語が、確かだ。「変態し擬態し」。そうか、擬態もするのか。侮れない。「女らやはらかくゐむ」。そう、したたかさは、つまりやわらかさなのだ。

成熟は、既存の体系のなかでなされるのではない。しかし、その度合いの判断は、既存の体系のなかでなされる。これら二つのことを知っている者が、正しく成熟していくのだろう。