一日が過ぎれば一日減つてゆくきみとの時間 もうすぐ夏至だ

永田和宏『夏・二〇一〇』(2012)

 

もちろんこの歌は病床の妻、河野裕子との残された時間を惜しんで詠まれた歌である。さらに何度も読んでいるうちに、この歌は自分にも、この世に生きている人それぞれにもあてはまる歌だと思う。生きるということは死へ向かって一日一日残された時間が減っていっているという事なのだから。ただ常に自分が「死」を遠いものと思っていて、時間が減っている感覚がまったくないのである。親しい人との残された時間は一日ごとに確かに減っていっているのだ。

 

酔芙蓉のどの葉も萎れ夏の庭もうすぐ母は死なねばならぬ

 

このような歌も『夏・二〇一〇』にはある。義母の死を詠んだ歌である。「もうすぐ母は死なねばならぬ」少し突き放したようなそれでいて強い表現であり、やりきれない哀しみを感じる。酔芙蓉の葉も萎れるほど暑い夏の日、妻に残された時間、義母に残された時間を思いつつ作者の心はとてつもなく張り詰めている。

 

悔しいときみが言ふとき悔しさはまたわれのもの霜月の雨

 

こういう歌もよく伝わってくる。親しい人、特に家族の悔しさや辛さというものは自分のことのように感じて時には自分が激昂したりしてしまう。「悔しさはまたわれのもの」と、作者は冷静であるがともに傷を負い君にどこまでも寄り添っている。逆に「痛みも吐き気も遂には実感できざりき実感できぬままに逝かせし」という歌もある。味わったことのない身体の感覚はどんなにそばにいて言葉で相手から伝えられても実感できないものなのだ。

 

どの枝も水面に垂れて川岸にさくら咲くとき枝うつくしき

稜線にうぶ毛のやうな木々の影残して山ははやも暮れゆく

ゆふやみが鰓で呼吸をしてゐたり長谷八幡石段のわき

風はつねにむかう岸にぞやさしかる若き柳の枝ふかれつつ

 

『夏・二〇一〇』には苦しい作者の心を慰藉するような柔らかな自然への眼差しがいくつもある。一首目は桜を詠んでいるが桜の花よりも枝に注目している。二首目は「うぶ毛のやうな」という比喩が面白く、葉の落ちた冬の山の木々を細やかに詠んでいる。三首目は「鰓で呼吸してゐたり」という感覚が鋭い。

水っぽく湿った感じの夕闇を想像した。

四首目は「むかう岸」という離れた場所にやさしさを感じている。届きそうで届かない甘やかなやさしさがある。こういう甘やかさは初期の「ともに陥つる睡りの中の花みずききみ問わばわれはやさしさをこそ」に根底でつながっているように感じる。