さいかち 真


肌しろき不良に煙草を投げられし地下道の闇が夜へとつづく

黒瀬珂瀾『蓮喰ひ人の日記』(2015年)

 ※「不良」に「チャヴ」とルビあり。

 イギリス滞在中の歌である。「肌しろき不良」は白人で、アジア系の顔をしている日本人の作者に向かって、煙草を投げつけたのである。おそらく排外主義的な、極右思想の持ち主であろう。「地下道の闇」は、人間性の「夜」を暗示する。まったき他者と対面する時の、切迫した臨場感が表現されている歌である。街を行けば「チャイニーズ」と言われ、明確にイギリス社会の中では、新参者や移民のような位置に置かれた。そうして移民たちの暴動を目撃した。作者が散髪した日系の店も暴動の被害に遭うのである。

この歌集は、一冊全体が、そのようなひりひりするような他者との遭遇の経験に満ちている。集の半ばから生まれたばかりの娘を世話する歌が大量に並ぶようになるのだが、作者はその子供についても、自分にとっては「他者」であるという姿勢を維持している。だから、凡百の育児歌集とはまったくちがう。

 

小さき荒野わが手にありて児を掬ひあざみの絮に包みゆくなり

 

「絮」は「わた」と読む。一読して、なかなかこんなことは言えるものではないと思った。子が「小さき荒野」のようにあばれているとしたら、それを父親として布で包みあげている私は、「あざみの絮」、つまり棘のある植物の持っている「わた」の柔らかさをもって、赤子を扱う存在なのである。あざみの花という言葉には、装飾的な美しさがある。自他・親子をともに個的な存在としてうたいあげながら、そこに作者らしいスタイリッシュな美意識を浸透させている。

 

マッシュルームの双子をとん、と切り分けて児が太りゆく時を祝せり

 

子供をうたいながら、家事とはいえ作者は刃物を手にしているのである。この見事なとりあわせによって、歌が甘くならない。

方法としては、主として詞書による複数の補助線が引かれることによって、普通の異化効果だけではなく、テキストに他者性を際立たせると同時に、それを宥和する役割や解説の役割をも付与している。まずジョイスの『ユリシーズ』からの引用を太い柱として置き、イングランドに対するアイルランドという場所(トポス)からの心理的な距離感をもって自己の滞英体験を絶妙なバランスで内側から対象化した。

それに加えて、ジョイス以外のブレイクの詩などからの引用や、日本のアニメ文化関連のイベントをはじめとする各種の会合への参加の経験や、茂吉関連の調査や、美術館や教会などの訪問や、仏教系の知人訪問など、いくつもの補助線を引き込んで、機会詩としての短歌の型式的な優秀性を存分に証明してみせた。しかも日録的に東日本の震災、とりわけて福島の被災を外部の視点から描くことによって、この時期の貴重な記録・証言ともなるような、自己の極私的な経験を民族の共通経験のひとつにまで高める努力を懸命に行ったと言えるだろう。

 

大観覧車はつかに見上ぐ人草を護るも喰ふも人草なれば

 

「大観覧車」に「ロンドン・アイ」と振り仮名がある。その昔アイルランドの食糧危機に際してイェイツが書いた激烈な風刺の言葉、人を喰うべし、という文言が下敷きになっており、一首のなかに支配者として君臨してきたイングランドに対するアイルランドの「青人草・民衆」の怨念の歴史が畳みこまれている。欧米系の文学的修辞が持つ硬質で引き絞られた感覚や、なにか残忍な気がするまで過剰に酷薄に言ってのけるセンスを、みごとに短歌に取り込んでみせている。