西田政史『ストロベリー・カレンダー』(書肆季節社:1993年)
(☜6月30(金)「生きると死ぬ (12)」より続く)
◆ 生きると死ぬ (13)
ひとつのテーブルを仲間同士で囲っている場面だろうか。卓上のグラスに、皆がきらめきながら映り込んでいる。
楽しい団欒の時間に違いない、しかし決して小説や演劇の中のような大きな出来事など起こり得ない、淡々とした日常であることが強く意思されている。きらめくグラスに平面として映り込む様は、映像として美しくとも、それはどこか透明な監獄に閉じ込められたような状況を指し示しているのかもしれない。
歌集には次の一首もあった。
死ぬ理由などないけれど死ぬならば歯痛始まるその瞬間に
劇的な人生を希求する一方で、誰もが迎える人生の最大の劇的な場面である「死」についてはほとんど現実的に捉えられていない。歯が痛くて辛い思いをするぐらいなら、その直前に死んだほうがマシ、といった程度に軽く考えられている。
劇的な人生を、けれども決して死ではないものを――
それは我儘で自分本意な願いかもしれない。しかし、そんな願いを素直にもてる若い日々は、長い人生のなかではほんの短い期間であるのかもしれない。
(☞次回、7月5(水)「生きると死ぬ (14)」へと続く)