熊本吉雄/先日はカレンダーをいただきありがとうございます 掛時計はありませんか

熊本吉雄『あら汁――心災小景』(2012年)


 

熊本吉雄歌集『あら汁――心災小景』のなかには、前回紹介したような歌歌のなかに、ときどき口語の歌がふっと置かれている。

 

・先日はカレンダーをいただきありがとうございます 掛時計はありませんか

(十一月七日)

日常品の多くを譲り受けながらの生活というものが見えてくる。「カレンダー」と「掛時計」、どちらも時間に関わる品だけれど、必要の位相の違いというか、「カレンダー」はあるけれど、「掛時計」がないことのちぐはぐさが印象に残る。今ここにあるものとないもの。それは膨大な喪失のあとで極端にシンプルな様相を見せる。平易な口語表現が、一度壊れてしまった暮らしの空洞を象徴するのだ。それにしてもこの歌の口語は棒のように感情の機微を持たない。「先日はカレンダーをいただきありがとうございます」のお礼の冗長さ。「ありがとうございます」のあとに「ありませんか」とさらにお願いを重ねなければならないことの心理の複雑なねじれがあるのだけど、そして、実際にしゃべるときには「あの、あと…」とかそういう接続が入るはずなのだけれど、もはや、そういう言い訳がましいものを切断する、感情そのものを喪失させているような感じがする。そのために、日常の構文としては何かが不自然で、「先日はカレンダーをいただきありがとうございます」と「掛時計はありませんか」は一字空け以上の時空のずれを感じさせるのだ。

 

・時々の歌壇は母への便りなり馬鹿な息子のまま生きてます

(二月二十九日)

・春の陽のやさしさ涙で浴びてます涙流せるようになりました

(三月十三日)

他にもこうした口語の歌が印象に残った。一首目は、「河北歌壇」に歌を投稿する動機の一つが語られているわけだけれど、集中に「母」を詠う歌は極めて少なく、少し意外な歌であった。小さなことだけれど、「馬鹿な息子は生きております」などと詠われていれば、常套的な表現として読み流していたと思う。けれど「馬鹿な息子のまま生きてます」には何か響いてくるものがあるのだ。

 

二首目の、「春の陽のやさしさ涙で浴びてます」という表現。涙を流しながら春の陽を浴びていることが、このような大胆と言っていいほどの省略で詠われる。「春の陽」と「涙」が混然一体となったような、涙が陽射しのように勝手に注いでくるような、そのようにして「涙流せるようになりました」と告げるのである。

 

いずれも平易な口語表現が象徴性を有していて、直に読者に伝わるものがある非常に優れた歌である。こうした歌は集中ではごくわずかであるだけに、3月22日に紹介した、

 

・なんだかね自分もガレキになっちまった ガレキはガレキを片付けられない

 

のような歌が生み出されることの、萌芽(というにはあまりにも完成されているけれど、集中に少ないという意味で)としても見えてくるのである。また、

 

・行き場なきガレキの山にボタ山を重ねてしまう賑いの跡  (三月六日)
・細々とした店構えそれこそが残りいて故郷はここなり  (三月十一日)
・「ガレキ」という共に暮らした半身が粉砕されて異土に消えゆく  (三月二十七日)
・原型を止めぬままに置き去りにちっぽけな自負もガレキとなりぬ  (五月六日)

※いずれも2012年作。

こうした、歌々には、そのモチーフの萌芽がうかがわれ、作者が繰り返し繰り返し詠うなかで、研ぎ澄まされてゆく表現の推移がうかがわれるのだ。そして、平易な言葉が抱えている深い虚無感が知れるのである。

 

つづく。