生沼義朗


松岡秀明/罫線も活字も美しき赤なるは麻薬を処方するための紙

松岡秀明『病室のマトリョーシカ』(ながらみ書房・2016年)


 

松岡秀明の第一歌集『病室のマトリョーシカ』の巻頭にある、集題と同名の一連「病室のマトリョーシカ」20首の16首目。俵万智の序文によればこの一連は2010年の心の花賞を受賞している。

 

 

われの名と響きの似たる二十九の女がホスピスに入る午後四時
ホスピスへの入院希望を書く紙に誰の意志かを質(ただ)す欄あり
患者らの漕ぐ車椅子ゆつくりと森の方へと光をはこぶ
マトリョーシカ、ベッドの上に置きしまま若き患者はしばらく不在
炎天に稲光して顔を上ぐベッドに凝る患者を逃れ
「死ぬことは怖くないけど、不安です」彼女は桃を食べながら言ふ
藪枯らし刈られしままに枯れてをり病棟中に草熅(くさいき)れさせ
夜の蝉にさめた光で応ふるは霊安室への電子道標(だうへう)
マトリョーシカ分かちて終(つひ)に現はるる虚(うろ)をもたない小(ち)さき人形

 

 

藤島秀憲の解説によると、松岡は精神科医であり宗教と医療が専門の文化人類学者でもある。「病室のマトリョーシカ」の歌を順番に読んでゆくと、東京・清瀬のホスピスに医師として勤務していることがわかる。ホスピスは言うまでもなく、ターミナルケアつまり終末期医療を行う場である。患者に近い将来死が訪れるのは避けられない。疾患を治すための治療ではないという点で、今までに取り上げた医師とは環境が異なる。

 

掲出歌は、患者の身体的苦痛を取り除くためにとうとう麻薬を処方しなければならなくなった。取り扱いに万全を期す必要があるから、処方の書類は罫線も活字も赤で印刷されている。しかもその赤を美しく感じた。眼の前の事実を淡々と述べているだけなのに、その事実がものすごい圧力をもって読者に迫ってきて、強烈なリアルがある。「美しき赤」には主観が入っていて、普通主観は歌の描写の精度を鈍らせてしまうが、そうした懸念を感じさせない。

 

引用した他の歌を見てみると、3首目の車椅子の歌も地味かもしれないが佳歌である。車椅子を「漕ぐ」と言うのは、もしかしたら医療現場では普通にそういうのかもしれない。だが自分には「漕ぐ車椅子」は新鮮であり、かつ説得力がある表現だった。下句の「森の方へと光をはこぶ」も明と暗あるいは希求と不安を包括的に表現する措辞として秀逸である。5首目の稲光の歌も、何気ない医師の日常の景色を描いているようでいて、季節感と内心の葛藤が滲んでいる。

 

連作構成も考えられており、時系列を軸に進めながら29歳の女性患者と医師である「われ」をめぐる状況を丹念に描いている。後半はホスピスに隣接する森を描いた自然詠の要素が多くなってきて、一連がより立体的になっている。ちなみに清瀬は病院が多く、その一帯は今でも武蔵野の面影を残した雑木林が多く残っている。

 

はっきり書かれてはいないが、最後の2首で患者の死が暗示される。医師として当然思うところはあるだろう。感傷は最小限に抑えられ、歌としては事実の描写に徹する。しかし一首一首に抒情は充分に込められている。ここに歌人の力量が存分に発揮されている。

 

特殊な素材を歌に詠もうとするとき、素材に一首の比重がかかってしまうことがままある。事柄の説明に終始してしまう歌もよく見られるが、これは連作では設定や状況を説明する歌も必要になってくるから、やむを得ない側面もある。しかし松岡の一連にはそうした齟齬は見られず、きわめて自然に一連を捌いている。

 

つまり、一連のバランスがいいのだと思う。器用とかそつがないという意味ではない。事実を描く筆力はもちろん、いろいろな要素を感知しつつ一首そして一連への取捨選択が的確になされている。『病室のマトリョーシカ』という歌集自体、医師としての歌だけでなく、大学の教師としての歌、あるいはサッカー、料理などさまざまな題材の歌が見られる。それをあえて取捨選択せず一冊に収めているのは、人間は多種多様な要素で成り立っている認識が松岡にあるからだろう。しかしとりとめのない印象はなく、不思議に各種の要素がバランスを保って釣りあっている。このバランスは紛れもなく、歌人の資質なのである。