生沼義朗


馬淵のり子/看護師の手の甲のメモ三桁の数字見ながら血を採られおり

馬淵のり子(「短歌人」2019年3月号)


 

 

前回は看護師が自身の仕事を詠んだ歌を紹介したが、今回は看護師の仕事を患者側の眼から詠んだ歌を取り上げる。

 

何年か前にNHK教育(Eテレ)のテレビ番組である「NHK俳句」の「俳句さく咲く!」を見ていたら、テーマが「働く人」で、出演者が作った句のほとんどが第三者としての「働く人」を描いていたのが興味深かった。短歌であれば、「働く人」としての自分を描いた歌が多くなっていただろう。

 

掲出歌は自分の所属誌「短歌人」の掲載作品だが、初見は「短歌人」埼玉歌会の2018年12月歌会に出されていた歌である。題詠で、題は「手」だった。労働詠の範疇に入るが、働く自分ではなく、働く他者を描いている点に注目したい。

 

採血をされている間は、腕に針が刺さっている以上何もできないし、またしてはいけない時間である。したがって、部屋の様子や壁に貼ってあるポスターや窓の外の景色や他の人の様子などを、見るともなしにぼんやりと眺めるしかない。

 

掲出歌は注射器で自分の血を採っている看護師の手の甲に注目した。言われてみれば、看護師が手の甲をメモに何かを記す、あるいは手に何かが記されている姿はよく見かける。そしてこれは、他の職業ではあまり思い当たらない。

 

手の甲には3桁の数字がボールペンか何かで記してある。もちろん、書いた本人には3桁の数字に何らかの意味と目的があることは間違いないが、第三者である作者には何を示すものかはわからない。わからないからこそ妙に意味深で、それゆえにいろいろと勝手に想像をふくらませることもできる。ここに無意味の意味の妙味がある。

 

上句で4回重ねられる「の」は、技術的には上手くないと見る向きもあるだろう。たしかにリズム的に若干のたどたどしさや単調さを呼び寄せてしまうことは否定できないし、「手の甲のメモ」も言葉としてはこなれない印象なので推敲の余地があるかもしれない。

 

しかし一方で、実際にたどった視線に忠実に言葉が導かれているため、この「の」の重なりは、看護師⇒看護師の手⇒手の甲⇒手の甲の3桁の数字、と視線が徐々に移行してゆく区切りの役割を果たすとともに、眼に入ったモノを脳が認識として確認するプロセスをも示している。

 

下句は「数字見ながら血を採られおり」と淡々と述べられる。自分の感想や意見をことさらに言っていないところがポイントである。ここで感想や意見を言ってしまうと、先に述べた無意味の意味が台無しになってしまう。描写に徹したことで無意味の意味が一首により濃く漂っている。

 

採血は看護師によって上手い下手がはっきり出る。ぼんやり手の甲の数字を眺めながらあれこれ考えられたということは、上手い看護師にあたったということだろう。