花山周子


小池光/耳の垢ほりて金魚に食はせ居りいつとはなしに五月となりぬ

小池光第四歌集『草の庭』(1995年・砂子屋書房)


 

ねそべりて頬杖つきて見るともなし鉢の金魚はをりをり消ゆる
耳の垢ほりて金魚に食はせ居りいつとはなしに五月となりぬ

 

「五月」と題されたこの二首は、一首ずつ読んでもそれぞれに自立した味わいがあるけれど、二首を対として読む面白さもある。
私はこの二首目を一首目からの流れで読んできたとき、耳の垢を本当に金魚に食わせるとは思わなかった。食わせてみようかな、という戯言かと思って読んでいたら本当に「金魚に食はせ居り」ということになった。お世辞にも素敵な行為とは言えない。ところが、だ。「いつとはなしに五月となりぬ」と言われたときには全てが浄化され、この人物がかっこよく見えてしまうのである。一首目の「見るともなし」と、「いつとはなしに」が対になっていて、着流すような流れが全てを浄化してしまうのだ。

 

ねそべりて頬杖つきて見るともなし鉢の金魚はをりをり消ゆる

 

せっかくなので、一首目のほうも見てみよう。寝そべって、横から鉢を眺めている場面。人間というのは、炎のゆらめきを眺めていたりすると脳がデフォルト・モード・ネットワーク状態になるということが最近、科学的に証明されているけれど、この金魚の鉢を眺めるというのも同じだろう。そういう「見るともなし」の時間が描かれる。水槽でなくて金魚鉢なのは大事で、あの硝子の淵が青くてびらびらとして、その下の球形の歪みのなかで金魚がときどき死角に消える。ふしぎな接続の歌である。「見るともなし」と、第三句で切るともなく切れてから「鉢の金魚はをりをり消ゆる」というふうに、歌の主語も、「をりをり消ゆる」よう。そして、その鉢に耳の垢を放ることになる。

 

前回紹介した啄木の歌とこの二首は実はつくりがよく似ている。「うつとりと本の挿絵に眺め入り」までが一首目。そして「煙草の煙吹きかけてみる」が「耳の垢ほりて金魚に食はせ居り」ということになる。そして小池の歌では季節の情感が付け加えられた。「いつとはなしに五月になりぬ」。初夏の日差しの中に置かれた金魚鉢の色彩が美しい。今年もいつとはなしに五月になった。