前川佐重郎/夏草の一茎にありてしづみゐし蟷螂(かまきり)の眼の碧きこゑのす

前川佐重郎第一歌集『彗星紀』(1997年・ながらみ書房)


前回紹介した、

 

夏草をちぎりて撒(ま)けば空くらし静脈のごとき茎そそりたつ

 

の歌の次に置かれるのが今日の一首である。

 

夏草の一茎にありてしづみゐし蟷螂(かまきり)の眼の碧きこゑのす

 

夏草の一茎に蟷螂がいるのだが、「ありて」という言い方に注目する。「ゐる」というよりも、「ありて」なのだ。先の細い六本の足で、ちょっと浮かぶようにして止まっている蟷螂の姿がある。「しづみゐし」が読み切れていないんだけれども、草に紛れていた蟷螂の状態を言っているように思った。それが、「蟷螂」だと知覚されたとき、じっと草のようにしている蟷螂に「眼」がある。その「眼」が「碧きこゑのす」という。この「碧きこゑ」という表現が特殊であり、生き物としての光がそこに点されている感じがする。静止している世界の一点に凝縮された生命の気配。

あるいは、「ありてしづみゐし」は全て「蟷螂の眼」にかかっているのかもしれない。いずれにしても「碧きこゑ」という一点にこの歌は捕らわれている。

 

この一連には、他にも印象的な「眼」の歌がある。

 

小守宮(こやもり)の愛しき眼(まなこ)に宿りゐし一滴の鬱けふは零るな

 

小守宮の眼に宿された「一滴の鬱」は作者の心が投影したものであるだろうか。「愛しき眼」という心寄せにはそのような読みも可能だ。だけども、私はこれを、守宮の眼のひとつの発見であると思う。あの黒い小さな眼は蟷螂の眼と同じく、何も語らず、だから、じっと見ていると何かを語ってもいる。その眼の不思議な光のなかに「一滴の鬱」という陰影が発見される。「けふは零るな」もまた、そこに作者の心情が重ねられているというよりも、これ自体が一つのポエジーなのだ。「宿りゐし」という過去形であるから昨日のことだったのか、それが「けふは零るな」という今日の心の琴線に引き寄せる。小さな守宮の眼に対する震えるような感度がある。