花山周子


東直子/ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれそうです

第二歌集『青卵』(2001年・本阿弥書店)


 

前回、私はこの歌のダイアローグな特性を強調して書いたけれど、本当はこの歌、叙述としても読めると思う。第四句までは明らかに叙述であって、結句も散文の叙述のスタイルとして「~です」というのは決して珍しくない。作者の東自身も叙述として詠っている可能性は高いとも思う。あるいは、ダイアローグであるとして、それが必ずしも読者に向けられたものであるとは思わない。

 

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て

『春原さんのリコーダー』

 

以前、私は東直子論の中で、この歌の「来て」について、

 

「来て」と突如、現場に呼び出されたことによって、私はその何かを、東と共有したのである。

 

と書いているんだけど、「青い卵」の歌にしても、この「来て」の歌にしても、相聞的に読む方が自然かもしれない。「きみ」に告げている。「きみ」を呼んでいる。というふうに思いの対象は特定の誰かに向けられていて、だからそれを耳にして、のこのこ現場にやってきた私はとんだ勘違い野郎でもあるだろう。けれども、一方で、こんなふうに「こぼれそうです」とか「来て」というふうに歌が終わらせられることってあまりなくて、それをこういうふうに短歌として切り出されたときに読者の私が受けてしまう感触というものがある。私はそういう自分の受けた感触を拡大していま、見ているのである。

 

そして、こんなふうに歌が終わらせられていることが、一つの真っすぐな通路を開いているように見えるのだ。

 

① ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれてしまう

② ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれ落ちそう

③ ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれそうだよ

ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれそうです(原歌)

 

とりあえず、この歌では第四句まではもう言葉が動かないという感じがする。そして、第五句に到って、様々な選択肢が用意されるように思う。①の「こぼれてしまう」がふつうなら一番選ばれそうな気がするけれど、一方で一番弱いと感じるのもこの「こぼれてしまう」だ。「こぼそうです」に感じられる、いままさにその予感のなかにいることの現場性が「しまう」では状態が曖昧になり、弱まるからだ。②の「こぼれ落ちそう」だとまだまだ説明的で弱い。③「こぼれそうだよ」も「だよ」が字数合わせの弱さを見せる。他にもたぶんいろいろ選択肢はあって、その中で「こぼれそうです」だけが、生き残って、一本の道をまっすぐにこちらに繋いでくる。
「こぼれそうです」によってこの歌は、歌そのものが触手となり、独立した生命を持ってしまった気がする。

 

それで、でも、この歌や「来て」の歌が特定の誰か(実際の誰かということじゃなくて、歌において「きみ」の存在が設定されているというか)に向けられた相聞歌でもあるだろうということは、短歌というものを考えるとき実はすごく重要なのではないかと思う。

 

そのことを次回書きます。