斉藤真伸/秋場所もパドックもなきあの世とはわが師にはさぞ退屈だろう

斉藤真伸『クラウン伍長』(書肆侃侃房・2013年)


 

前回は上野久雄の歌について述べたが、今回は上野を偲んだ歌を取り上げたい。

 

斉藤真伸(さいとう・まさのぶ)は1971(昭和46)年山梨県生まれ。1995(平成7)年に、当時の職場の同僚で現在「みぎわ」の代表である河野小百合に誘われて「みぎわ」に入会し、上野久雄に師事した。『クラウン伍長』は第1歌集である。

 

 

病院ゆ戻る夕べのくらきみち神の壊れた玩具かヒトは
死はやはり極悪非道口髭を剃り落とされて師は横たわる
亡骸を燃やし尽くせばくろがねのアララギの実が残るのだろう
柿よ柿なぜに実るか先生はもはやおまえを食えぬというに
冥界の理屈知らねど先生がわが枕辺にたつことはなし
一箱の柿を残して辞去すれどなぜかわが身は軽くならざり
胃を壊しこころを壊し白粥の梅のくれない色を増しゆく

 

 

掲出歌は歌集後半の「柿」17首の15首目。一連はすべて上野久雄の死にまつわる歌である。いい歌が多いので思わず沢山引いた。どの歌も上野を偲ぶ心に満ちている。前回上野の競馬の歌を取り上げたが、相撲も好きだったとはこの歌を読むまで知らなかった。上野が本場所の中でもとりわけ秋場所が好きだったかは知らないし、他の歌を読んでもそこまではわからないが、9月場所を通称秋場所と呼び、ちょうど上野の命日である9月17日と重なる時期に開催されることは解釈と鑑賞に必要な要素である。一首の語調が淡々としつつややぶっきらぼうで、いかにも斉藤真伸らしい印象だ。背後に偲ぶ心と照れ隠しにこうした口吻をしている作者像も浮かんでくる。

 

引いた他の歌を見ても、どの歌も上野を悼む気持ちにあふれている。2首目は髭が剃り落とされたのは一連の他の歌も併せて読むと、逝去の後と読んだ。3首目は前回の冒頭に述べたが、上野が「アララギ」出身であることを踏まえている。そして斉藤もその流れを汲む自覚がこの歌をものしている。4首目からは柿が上野の好物だったことが伝わってくるが、6首目はそれを受けたもので、お線香をあげに上野の家を訪れた際の歌。全体にシンプルな措辞ではあるが、だからこそ作者の悲傷がダイレクトに読者に手渡される。7首目も尊敬するひとりの死が、それを受けとめる人間の心身に影響を及ぼすさまを描く。下句の「白粥の梅のくれない色を増しゆく」は心象を表したものだが、静かな悲しみが一首に漂い、読者の胸に迫ってくる。

 

 

ブックオフに「イエスタデイ」が流れれば暴れだしたき青空となる
昨日から頭が痛い 古釘の先をひからす晩夏のひかり
ぬばたまの夜更けにひらく「花とゆめ」誤植をひとつヒロインが吐く
ゆくりなく尿意来たりて『三国志』のページあたかも官渡のくだり
生活の木のパンフレットは顔のした妻が居眠る午後のテーブル

 

 

『クラウン伍長』は全体に世界や世間を斜から、しかし丁寧に眺めている歌集である。技術力も高い。世界との距離の取り方は上野久雄の歌における対象との距離感とはあきらかに違うのだが、自分には嫌な感じはなく、斉藤の歌の独特の味わいに資している。考えてみれば、歌集題の「クラウン伍長」は「機動戦士ガンダム」の登場人物で敵軍の一員だが、言ってしまえば端役である。その端役を歌集題にしたところに斉藤の精神的志向が図らずも表れているが、あとがきにこの題は上野久雄の発案とあって驚くとともに、上野が斉藤の作品の特性と傾向を見抜いていたことに深く頷けるものがあった。

 

短歌だけではないだろうが、誰に師事したかでその人が短歌を続けるか否かはもちろん、作風や歌論に大きく影響することは多々ある。その意味で斉藤にとって上野久雄はかけがえのない偉大な師であったことは間違いなく、『クラウン伍長』を読みながら、人があるいは結社がひとりの歌人を育成する過程をまざまざと見る思いがした。